自分と他者の「複言語・複文化」を理解することの大切さ
コミュニケーションを重視する「コミュニカティブ・アプローチ」という指導法は1970年代から存在していましたが、近年は、日本語を使って「何ができるのか(Can-Do)」を軸にした教育が取り入れられるようになってきました。
学習者の目的に沿って言語習得状況を評価するCan-Doの考え方は、欧州評議会で整備されたCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)というガイドラインが元になっています。CEFRは、言語能力を共通の尺度で記述するための枠組みで、A1からC2レベルまであります。
最近は日本でも、英語学習教材などでCEFRのレベルが提示されることが増えてきました。ただし、このガイドラインの目的は、単純に言語能力を序列化することではありません。多文化・多民族で構成される欧州社会において、異なる文化や価値観を理解しながら、その上で言語を用いて何ができるのかを記述する枠組みなのです。
欧州では、複数の国や民族にルーツをもつ人が少なくありません。たとえば母語はイタリア語だけれど、父方のルーツがドイツなのでドイツ語も理解できて、仕事では英語をよく使う……というように、自分の中に複数の言語がある状態です。このように、個人の中に複数の言語・文化が共存しているという考え方を「複言語・複文化主義」といいます。その人を構成するいくつものアイデンティティに優劣がないのと同じで、母語のイタリア語、A2のドイツ語、C2の英語の間に優劣があるわけではありません。
複言語・複文化主義という前提に立つと、誰かと会話するときにお互いが共通言語に対してどれくらい理解しているかという基準があるため、コミュニケーションが円滑になります。自分はスペイン語がC1だけど、相手がスペイン語A2レベルならそれに合わせて話そう、という具合です。
自分の中の複言語・複文化性を理解することで、他者への理解も深まり、言語の習熟度・理解度を優劣ではなく「違い」として受け入れ、それに合わせることができる――CEFRがめざしているのは、そうした寛容な世界なのだと私は解釈しています。数々の戦争を経験してきた欧州が、もう二度と過ちを繰り返さないために苦心して編み出した考え方といえるでしょう。
国の中で共通言語とされている言語がほぼひとつという日本の社会は、世界的に見ると珍しい環境です。欧州に比べると自分の中の「他の言語」を意識する機会は多くないかもしれませんが、複言語性への理解は日本語学習者とのコミュニケーションを考える上でとても重要です。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
