
少子化が進む現在の日本社会は、さまざまな国にルーツを持つ人々との共生なくしては成り立つことができません。2025年6月末には在留外国人数が395万人を超え、過去最高となりました。その多くは日本語を学び、学業や日常生活を通して日本社会に参加しています。こうした、日本語を外国語として学んで使っている人々と日本語母語話者はどのように「日本語」でコミュニケーションを取っていったらよいのでしょうか。そこで、「言語」という視点からこれからの社会に欠かせない多文化共生のあり方を考えていきます。
外国語で「話したくない」のは「私が伝わらない」から
私は長年にわたって、外国人留学生への日本語教育に取り組んでいます。特に、音声コミュニケーションがどれだけその人の自己開示につながり、アイデンティティや相手との関係性に関わっているかということに関心を持って、より良い音声教育のあり方について研究してきました。
学習中の外国語を使ってネイティブとコミュニケーションを取ることは、大きなストレスを感じるものです。その1つの理由として、スムーズに自己開示できる母語を持っているにもかかわらず、拙い言語を使わなければならない状況において、自分のことが理解されていないのではと不安を感じるためです。私が接してきた留学生の中にも、とても優秀であるにも関わらず、日本語で思うように話せないため周囲から不当に能力を低く見られてしまう経験をしている人たちがいました。初級レベルの頃は周りの日本人も比較的歩み寄ってくれるのですが、中級以上になると意思疎通はできるので、「できない部分」が見られるようになり、能力を低く見積もられてしまいがちです。学習者たちはそのストレスから、日本語を話すこと自体が嫌になることもあるようです。
そのようなことにならないよう、日本語教育でフォローしていかなければならないのですが、初級、中級で学ぶべきことは膨大で、音声教育は比較的後回しにされがちです。そして教科書には日本語発音の基本、母音と子音の組み合わせや拍についてなど、多くは「正しい」発音のことだけ説明されています。しかし本来ならば、発音学習の目標は「相手に伝わること」であるはずです。そこで私は、学習者ができないことを無理にトレーニングするのではなく、より発音しやすい方法で「相手に伝わりやすい発音」ができるよう指導しています。
例えば、特殊拍と呼ばれる「長音」「撥音(「ん」)」「促音(「っ」)」周辺の音は苦手とする学習者が多くいるのですが、それを一般的に言われている拍の問題ではなく、学習者が発音しやすく伝わりやすい要素を用いて教えるのです。たとえば、「王子(おうじ)」と言いたいけれど長音を十分に伸ばせず「おじ」に聞こえる場合、「お」を<高→低>として発音してみることを勧めると、きれいに「おうじ」と聞こえるようになります。
また、促音「っ」についても、「一般(いっぱん)」、「一旦(いったん)」は「p」「t」の閉鎖があるけれど、「一生(いっしょう)」ではどこも閉鎖しないで発音していることを伝えると、学習者は安心して、発音しやすい口の形を身につけ、そして、相手にも伝わりやすい発音ができるようになります。
外国語を話すことは緊張を伴いますが、伝わりやすい楽な発音方法を身につけられれば、発話のハードルを下げることができ、自分を伝えられる自信がついて、母語話者とも気持ちの良いコミュニケーションが取れるのではないかと考えます。
自分と他者の「複言語・複文化」を理解することの大切さ
コミュニケーションを重視する「コミュニカティブ・アプローチ」という指導法は1970年代から存在していましたが、近年は、日本語を使って「何ができるのか(Can-Do)」を軸にした教育が取り入れられるようになってきました。
学習者の目的に沿って言語習得状況を評価するCan-Doの考え方は、欧州評議会で整備されたCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)というガイドラインが元になっています。CEFRは、言語能力を共通の尺度で記述するための枠組みで、A1からC2レベルまであります。
最近は日本でも、英語学習教材などでCEFRのレベルが提示されることが増えてきました。ただし、このガイドラインの目的は、単純に言語能力を序列化することではありません。多文化・多民族で構成される欧州社会において、異なる文化や価値観を理解しながら、その上で言語を用いて何ができるのかを記述する枠組みなのです。
欧州では、複数の国や民族にルーツをもつ人が少なくありません。たとえば母語はイタリア語だけれど、父方のルーツがドイツなのでドイツ語も理解できて、仕事では英語をよく使う……というように、自分の中に複数の言語がある状態です。このように、個人の中に複数の言語・文化が共存しているという考え方を「複言語・複文化主義」といいます。その人を構成するいくつものアイデンティティに優劣がないのと同じで、母語のイタリア語、A2のドイツ語、C2の英語の間に優劣があるわけではありません。
複言語・複文化主義という前提に立つと、誰かと会話するときにお互いが共通言語に対してどれくらい理解しているかという基準があるため、コミュニケーションが円滑になります。自分はスペイン語がC1だけど、相手がスペイン語A2レベルならそれに合わせて話そう、という具合です。
自分の中の複言語・複文化性を理解することで、他者への理解も深まり、言語の習熟度・理解度を優劣ではなく「違い」として受け入れ、それに合わせることができる――CEFRがめざしているのは、そうした寛容な世界なのだと私は解釈しています。数々の戦争を経験してきた欧州が、もう二度と過ちを繰り返さないために苦心して編み出した考え方といえるでしょう。
国の中で共通言語とされている言語がほぼひとつという日本の社会は、世界的に見ると珍しい環境です。欧州に比べると自分の中の「他の言語」を意識する機会は多くないかもしれませんが、複言語性への理解は日本語学習者とのコミュニケーションを考える上でとても重要です。
母語話者の意識が変われば、コミュニケーションは更に円滑になる
日本語学習者の発話不安を取り除き、意欲を高めるうえで、聞く側である日本語母語話者の接し方が大きく影響していることが研究によってわかってきました。日本語学習者は「自分のことがきちんと相手に伝わらないのではないか」という不安を常に抱いています。日本語母語話者の方から「あなたのことを理解しようとしている。言語能力だけで評価しない」という姿勢を見せると、それだけでとても話しやすくなり、発話意欲も向上するのです。
具体的な接し方としては、学習者の日本語のレベルに合わせて、平易な日本語を使ったり、「わかりますか」と確認したりすることが挙げられます。母語として自由自在に使える日本語を、外国語のように客観的に見つめ直して使う。こうして学習者と接することは、「母語である日本語」を使う私と「もうひとつの日本語」を使う私という2つのアイデンティティを持つことにもなり、つまり複言語世界を生きることになるとも言えるでしょう。
そんな実践の場として、現在ゼミナールでは日本人学生と留学生がテーブルを囲んで話す「日本語カフェ」という国際コミュニケーションの場を開いています。回を重ねるごとに、日本人学生は相手に伝わりやすい日本語を自然に身につけていくのがわかります。また、留学生にとっては日本人学生と友達になり、日本語の実践的な練習になるだけでなく、日本語で気軽に話せる場所があるということから新しいアイデンティティの構築にもつながっているようです。日本人学生には複言語世界の寛容性を学ぶ場として、そして留学生にとっては困難の多い留学生活を支える場になっているのであれば、これほど嬉しいことはありません。
最後に、もうひとつの日本語である「やさしい日本語」について紹介します。東京オリンピック・パラリンピック開催時に話題になった「やさしい日本語」ですが、そのきっかけとなったのは1995年に発生した阪神・淡路大震災でした。震災後の調査で、外国人の死傷者率が日本人の約2倍にも達したことがわかったのです。災害時、言語の壁による情報格差が生死を分けてしまうという事実が浮き彫りになったことで、一人でも多くの人に必要な情報を伝える方法を模索することが喫緊の課題になりました。日本に住む外国人といってもルーツはさまざまなので、その人の理解しやすい翻訳がいつでも提供できるとは限りません。そこで社会言語学者を中心に、緊急時に必要な情報をわかりやすい日本語で提供する方法が研究され、NHKや自治体等から「やさしい日本語」が広がっていきました。2024年に発生した能登半島地震の際、テレビで「津波がきます。今すぐ逃げてください!」と簡潔に繰り返していたのを覚えている方もいるかもしれません。災害時にメディアが「やさしい日本語」を使うようになったことは、本当に大きな進歩だと思います。
このように、私たち一人ひとりが「どんな言葉なら伝わりやすいか」と考えて自分の言葉を変えていくだけで、お互いがさらにわかりあえるようになるでしょう。
私が在外研究で滞在していたロンドンや、その他インド、シンガポール、ベルギー等、多言語が飛び交う土地に行くと、こちらの拙い言語に対して人々がとても寛容に接してくれるように感じます。そうした空気は、その土地の言語を習得しようと頑張っている外国人にとって、とても心強いものです。日本でも、言葉の「正しさ」ではなく「伝わりやすさ」をめざす姿勢を社会で共有できた時、多文化共生が理念ではなく、身近な日常になっていくのではないでしょうか。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
