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2025.02.06

多文化共生を目的とした演劇実践——〈彼らが演じる〉舞台の現在

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演劇は現実の再発見を促す、日常に根ざした営み

 日本でも、ドイツで見られるような動きがいくつかの劇場で見受けられます。東京・池袋の東京芸術劇場や三軒茶屋の世田谷パブリックシアターがその代表例です。

 東京芸術劇場では、移民やマイノリティといったテーマに明るい専門家がブレーンとして活動しており、ドイツから実践家を招いてレクチャーやワークショップを開催しています。日本の俳優や演出家でこうしたテーマに関心がある10名程度を招いて、ドイツの実践家と情報を共有し、短い劇を制作することもあります。

 また、世田谷パブリックシアターは、〈彼らが演じる〉演劇の点で、とくに先進的な活動を行っています。『地域の物語』と題したプロジェクトのワークショップの中では、プロの演劇人たちがファシリテーターとして参加し、毎年「生と性」や「看取り」といったテーマを設けて、一般の参加者=地域で暮らす人々が議論し、上演内容を形作っていきます。

 このワークショップでは、最終的には発表会も行われます。地域の人々の日頃の悩みや、普段話す機会がない生活の一端が共有され、舞台という開かれた形で発信されるのです。

 2024年の『地域の物語』では、交通事故により高次脳機能障害を患い、現在は電動車椅子で生活されている方が出演する作品がありました。その方は、セリフをスマートフォンで表現します。台本は、ワークショップ参加者(=出演者)とファシリテーターが取材した、その方の半生がベースとなっており、その取材プロセス自体もまた舞台上で再現されました。まさしく、当事者である〈彼らが演じる〉演劇といえるでしょう。

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世田谷パブリックシアター「地域の物語2024」『劇場と地域コミュニティの冒険~みんなイロイロ生きてるぜ!』演劇上演会『ともにゃの部屋~黒田真史さん』
司会=大道朋奈/2024年3月16日(土)・17日(日)/撮影=鈴木真貴

 私の考えでは、演劇は、日常の生活と切り離された特別なものではありません。現実そのものが舞台であり、ひとりひとりが何かの役割を演じて生きているのですから、演劇は、日常に根ざした営みなのです。

 シェイクスピアの『お気に召すまま』の中に、「この世界すべてが一つの舞台、人はみな男も女も役者にすぎない」(二幕七場、松岡和子訳)というセリフがあります。たとえば、私がイメージするのは、大学の教室での授業風景です。私は教壇に立ち、目の前には大勢の学生がいる。これは、私が俳優で学生が観客、という構図に見えますが、セッティングを反転させれば、学生たちの方が教室という舞台に立って演技をしている、ととらえることができます。

 社会の中では、誰もが見る/見られるという関係にあります。演劇を考えるということは、現実世界という舞台における、自分の〈パフォーマンス〉を意識することにつながるのではないでしょうか。

 私は、日常の生活の中で〈美しいパフォーマンスができる人〉つまり〈良い役者〉になってほしい、とよく学生たちに語りかけています。それは、大学という場に限らず、あらゆる場所で意識してほしいことです。たくさんの〈良い役者〉を送り出して、社会という舞台をよりよいものにしていきたく思います。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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