現代とつながる日本の戦争映画
一例として、田坂具隆(1902-1974)の作品をあげたいと思います。田坂は今でこそ専門家以外からはあまり知られていませんが、小津安二郎(1903-1963)や成瀬巳喜男(1905-1969)と同世代の人で、一時期は日本映画界を代表する監督でした。
1937年から日本が中国との全面戦争に突入し、大衆の生活も戦争色が濃くなっていく時期、田坂は映画作家として全盛期と呼ぶべき高評価を得ています。
1938年公開の戦争映画『五人の斥候兵』と、作家・山本有三の人気小説を映画化した『路傍の石』は、映画雑誌『キネマ旬報』が選ぶ年間ベスト・テンにおいて、その年の第1位と第2位に選ばれました。翌1939年も、火野葦平原作の『土と兵隊』で第3位を獲得しています。
これほど短期間に高評価が集中した例は、約一世紀に及ぶ『キネマ旬報』の歴史でも類を見ません。田坂の映画がそれだけ、戦時中の日本の人々の気持ちにぴったりと合っていたということでしょう。
その後、田坂は1945年に軍に召集され、故郷の広島で原子爆弾の投下を目の当たりにします。戦後は原爆症と闘いながら監督業に復帰し、人道主義的な作風の作品を手掛けました。
私にとって興味深いのは、戦時中に公開された田坂の作品までもが、戦後の日本において「ヒューマニティに溢れていた」「日本映画は戦争を賛美しなかった」と評されていることです。
すなわち、日本が中国や米国との全面戦争へ向かう一方で田坂は反戦的な映画をつくったのだという主張です。それははたして本当でしょうか?
たしかに田坂の戦争映画は、兵士の日常の些細な出来事に焦点をあて、一人ひとりの前線での生活と人間性を活写しています。また、これは他の日本の戦争映画の多くに共通する要素ですが、西洋のプロパガンダ映画にみられるように「敵」を悪魔的に描くこともありません。
しかしながら、当時の日本社会を詳細に分析してみると、やはり田坂の作品は政府と軍の意向を汲んだプロパガンダ映画であり、一定の戦意高揚の効果を発揮していたと考えざるを得ないのです。
日本の映画各社は1937年から戦時体制に入りました。当局が映画界の締め付けを強めるなか、1939年にはナチス・ドイツの法律をモデルとした映画法が施行されます。映画の製作や配給は許可制となり、脚本は事前検閲され、撮影中も監視員が立ち会うようになります。
田坂自身のちに当時を振り返りながら、検閲の中で戦争映画をつくることの困難を語っていますが、そうした時代にあって、日本の文部省は田坂の監督作を推薦映画に認定しました。
また、1938年の第 6 回ヴェネツィア国際映画祭では、『五人の斥候兵』が大衆文化大臣賞を受賞。ムッソリーニのファシスト政権もまた、田坂の戦争映画にプロパガンダ的性格を認めたのは間違いありません。
結局のところ、田坂自身の内心は別にしても、事実上、彼が作った戦争映画が日本の戦争を支持していたことは明らかなのです。少なくとも「戦争中に反戦的な映画を撮った」というような見方は、非常に美化した評価に思われます。
しかし一方で、私はドイツ語圏の出身なので、敗戦後の日本の人々がそのように再解釈をしたことも、気持ちとして理解はできるのです。
戦争という非道な行いのなかにあって「すべての国民が悪いわけではない」という忸怩たる思いがあったとすれば、「日本映画は戦争を讃美しなかった」という見方は、ある種の慰めになったことでしょう。
そして、こうした戦後の再解釈に見られる人間の心理は、依然として戦争を抱える現代社会の問題とつながっているのではないか、と私は思うのです。
もちろん、私の解釈のほうが正確ではない可能性もあります。だからこそ、小さい研究でも表に出して、異なる見解と議論をし、考えを深めていくこと自体に極めて価値があります。どんな研究が興味深く、社会に影響を与えるのは、研究をする前からわかるはずがありません。すでに結果がわかっていれば、もはや研究ではないのですから。
人はただ生きるだけでは満たされず、むしろ「余計なもの」こそを大切にしている。冒頭で私はそのように述べました。
研究は「社会の贅沢」です。そのうちの99.9パーセントは「余計なもの」でしょう。しかし、10年後や20年後、50年後、ひょっとしたら数百年後になってようやく意味が理解される可能性もあるのです。
映画学もまた、社会にそのような価値をつくる研究だと思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。