肥満問題は多様性のある社会を考えるきっかけになる
近年、日本でも多様性を大事にしようという考え方が広まっています。確かに、異文化理解や多文化共生といった考え方は少しずつ進んでいると思います。
しかし、人間の多様性とは、文化と民族やエスニック集団、外国人であることだけではすくい取れないものです。
老いていること、障害があること、女であること、セクシュアル・マイノリティであること、太っていること、病をもっていることなど、それらの差異は交差しながら私たちの生き方の多様性を作り出しています。
それは、ある意味で、社会の豊かさにも繋がっていると思います。その社会とは、こうでなければ生きられない、ではなく、どんな人でも生きやすい社会であるからです。
そこに絶対的な規範を持ち込み、選別の思想を生むことは、とても恐ろしいことではないでしょうか。
私がファット・アクセプタンス運動の調査のために、その集会などに参加してみると、そこには、自力で歩けないところまで太った人がたくさんいて、電動の車椅子のような乗り物で移動しています。
そもそも日本人とは体質が違うのか、よくそこまで太ることができた、という思いを抱かせるのは事実です。
彼らを診た医師は、間違いなく減量を指導すると思います。でも、それを受け入れるか否かは彼ら自身が決めることでしょう。痩せなれば生きられないというのは、一歩間違えれば、人の身体をまるで機械のような規格品と捉える見方になりかねません。
要は、肥満は健康リスクに繋がるというエビデンスは、ひとつの情報としてあるべきですが、私たちは、その情報から、私たちなりの判断をすれば良いはずです。
そして、人がどんな判断をしたとしても、それが自分の判断や社会のマジョリティの判断と違っていても、その差異を理由に偏見をもったり、差別することはあってはならないことです。
また、その人の在り方や生き方がどのようなものであっても、それをすくい上げる社会制度を構築していくことが必要だと思います。
アメリカでは、肥満の人は、そもそも病院に行きづらいし、健康保険にも入れないような制度になっています。
国民皆保険制度の日本では、少子高齢化が進んでいることで、その負担の増大が問題になっていますが、みんなが幸せに暮らせるような社会の基盤になっていくのは、はたしてどちらの制度なのでしょう。
もちろん、ファット・アクセプタンス運動が順調に発展してこられなかったように、肥満の問題はとても難しいのは事実です。
でも、少なくとも、「生きるに値しない身体サイズ」というような選別思想や、摂食障害を引き起こすような強迫観念を醸成する社会であってはならないはずです。
思い出してみてください。日本には、「ふくよか」とか「恰幅が良い」という、太った人をポジティブに表現する言葉もあるのです。
肥満の人を自己責任として断罪するような時代は、おそらく良い時代ではないでしょう。それを変えるのは、それを意識できる人たちが広がっていくことだと思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。