社会が生む排除の論理
少年法の厳罰化が進むのは、被害者や被害者遺族の声が反映された結果ともいえる。事実、被害者遺族団体の多くも、より一層の厳罰化を求めている。しかし問題を別の側面から見ると、社会が被害者や遺族に手を差し伸べていないという現実がある。たとえば犯罪被害者給付金制度というものがある。これは犯罪被害者に対して、その精神的・経済的打撃の緩和を図るために国が支給するものだ。しかし、その中で、被害者遺族に支給される金額は平均すると遺族1名あたり300万円程度にすぎない。犯罪被害者、特にその遺族は被害を受けたその日から途方に暮れ、先行きの光は閉ざされる。それに対して社会は必要な支援をしているか。たとえば通り魔犯罪に遭遇して命を落とした人がいる。しかしその被害に遭ったのは自分だったかもしれないのだ。その人が被害に遭ったがゆえに、他の人は被害を受けずにすんだのだとは考えられないだろうか。とすれば、被害者は自分を含めた社会全体の犠牲になったとも言えるのではないか。社会は、被害者や遺族への対応を真剣に考え、支援・手助けしていくための仕組みやシステムを作っていく必要があるだろう。
少年法の厳罰化というのは、単に法律の問題ではない。厳罰化は、今の社会がどのような社会であるかを如実に物語るものだ。厳罰化には、社会にとって異質な者、異物を排除していく考えが根底にあるのではないか。果たして、そのような社会が本当に住みやすく、生きやすい社会であろうか。ましてや可塑性の高い未熟な少年を、罪を犯したことをもって排除しようとすることが、社会のあるべき姿だろうか。臭いものに蓋をするのでなく、それを元から断つために少年には教育こそが必要であり、そういう制度や少年を受け入れる社会が必要であると考える。社会は決して均質ではない。いろいろな人間がいて、互いの異質性を理解し尊重することで、日々生活していけるのだと思う。厳罰化の進行は、生きにくい社会を形成することになる。異質な者も失敗した者も受け入れる穏やかな社会、生きやすい社会のあり方を、今後も法学からのアプローチで模索していきたいと考えている。
※掲載内容は2013年10月時点の情報です。
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