
2022年6月、アメリカ合衆国の最高裁判所は「ドブス対ジャクソン女性保健機構判決」(ドブス判決)を下しました。これは中絶を憲法上保護されるべきプライバシー権であると定めた「ロウ対ウェイド判決」(ロウ判決)を無効にするものだったため、2024年1月時点、保守派の勢力が強い米国15州で中絶をほぼ全面的に禁止する法律が制定されています。この問題を深く掘り下げていくと、この数十年のアメリカの社会や政治の特質が見えてきます。
中絶合法性の反対派vs支持派が、共和党vs民主党の構図へ
かつてアメリカにおいて中絶は、実質的に合法でした。イギリスの法律を引き継いだ慣習法では、胎児が動き始める初期胎動からの中絶は犯罪になるものの、それ以前の段階では可能だったのです。実定法によって禁止する流れになったのは19世紀の後半。それまで女性の助産師が行ってきた女性の生殖に関わるケアを男性医師が担うようになるにつれ、中絶に対する批判が高まっていったのです。連邦法で一律に禁止はされなかったものの、一部の例外を除いてすべての州で禁止する法律が制定されていきました。
それが変わってきたのが1960年代。中絶の合法化を要求に掲げていたフェミニズム運動の成果もあり、各州で中絶禁止を一部緩和していく法改正が行われ、1973年には最高裁でロウ判決が下ります。しかし、直後から反対派による激しい運動が展開され、1992年の「南東ペンシルバニア家族計画協会対ケーシー事件判決」(ケーシー判決)では、中絶の権利自体は引き続き擁護されたものの、中絶への規制が可能な条件が緩和され、その結果、南部を中心に中絶を受けにくくする州法が多数制定されました。その後、連邦裁判所の保守化が進み、ドブス判決に至りました。保守派からの支持が厚い共和党の強い州では、たちまち中絶禁止法が成立していきます。現状、中絶禁止法があるのは50州中15州ですが、テキサスのような人口の多い州も含まれており、かなり深刻な問題です。
では、どのような人が中絶禁止を唱え、また反対しているのでしょうか。中絶禁止を推進する運動家はプロライフ(生命を支持する)派と称し、中絶禁止というより、自分たちは生命を守ろうとしているのだと主張しています。彼らの論理は基本的に、胎児を受精の段階で「人間の生命」であると定義することで、女性の中絶を殺人であると解釈し、これを禁止するというものです。この立場を取っているのは「福音派」と呼ばれる、プロテスタントの中でも保守派の人たちに多く、アメリカ南部や中西部といった地方に集中しています。
それに対し、中絶の合法性を支持する側は、女性に生殖に関する選択権を保障すべきだと訴え、プロチョイス(選択権を支持する)派と呼ばれます。信仰にかかわらず、個人の自由や自己決定権を重視する立場をとっている人たちが中心となり、大都市圏の中流層以上に多く存在しています。
アメリカ全体の世論を見るとプロチョイス派、少なくとも中絶の合法性は守られるべきと考える人々の方が明らかに多数派であることは間違いありません。それにも関わらず、プロライフ派が政治的に影響力を持つようになっているのは、共和党の強力な票田として機能しているためだと考えられます。その結果、かつては共和党にもいたプロチョイス派の政治家は姿を消していきます。一方で、最近はプロチョイス派が民主党と結びつく傾向にあります。民主党にもかつてはプロライフ派の政治家もいましたが、共和党がプロライフ政党になっていったことでいなくなっていきました。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。