“私”にとって「自己決定権」とは何か?~国際比較しながら考える~
歴史を振り返ると、国による個人の権利保障や保護が、個人のセクシュアリティへの干渉や介入と並行してなされてきたことが、先行研究により明らかにされています。
たとえばドイツでは、主に列強諸国の間で帝国主義が広がり、個人を「国民」と位置づけ、より強固な国民国家形成が試みられるなか、1880年代にビスマルクのもと、世界で初めて労働保護法や労働者保険法(疾病、労災、老齢・障害)がはじまりました。対して、たとえば中絶は、プロイセン法から引き継がれた刑法218条により、いかなる理由があろうと禁じられてきました。
つまり、国および国民に安寧や豊かさをもたらすために、労働者を含む各個人の権利を認める一方(あるいは認めざるを得ないなか)、国に統合されていく国民に対して、公的領域・私的領域を問わず一定の介入や干渉を行うといったシステムが成り立ってきました(ドイツ社会国家)。
しかし冒頭でもふれたように、人びとの間で人権あるいは自由や民主主義を求める声が高まった1960年代、特に「68年運動(学生運動)」の広がりが世界的にみられた1960年代後半以降、このシステムが十分に機能しなくなります。公権力側は法律、伝統的な性道徳、イデオロギーを通じてでは、結婚・子育てからの逸脱、家族の多様化、若者たちの性の解放といった事態に対処しきれなくなったのです。日本も例外ではありません。
では、こうした歴史の延長上にいる現代の私たちは、プライベートな問題について自分の意思で選択・決断できているのでしょうか。“私”の「自己決定権」が無自覚のうちに脅かされていたり、あるいは、自己決定そのものにバイアスがかかってはいないでしょうか。
“私”の身体・セクシュアリティをめぐり、どのような操作がなされているのかに気を留めながら生活することが大切です。そのための一手段として、国内ばかりか世界で発信されている情報にも目を配り、自ら国際比較を試みることがあげられます。
その際、たとえばドイツとアメリカにおいて中絶をめぐり正反対の判断がなされたことに対して、どちらが正しいか誤っているか以上に重要なのは、ドイツとアメリカのみならず、日本をはじめその他の国・社会そして人びとの間で、中絶をめぐりどのような意見や議論などが発信されているかに関心を向けること、多角的に情報収集をすることです。
多様な価値観や考え方にふれ、都度、自分の考えを振り返り、場合によっては軌道修正することで、“私”に適切な選択・決断が可能になるのです。
またセクシュアリティに関していえば、情報収集の一環として、偏りがなくリアルな情報を正確に伝える包括的な性教育も重要です。
身体、産児制限、妊娠、出産などに関する基本的な知識はもちろんのこと、性暴力やSOGI(性的指向・性自認)などについて学ぶことは、性の多様性、さらには「自己決定権」に関して考えるきっかけにもなります。近年、性教育を提供できる教員が増え、また若者にとって性教育に接する機会が増えたことは、心強いことです。
セクシュアリティは“私”の生き方と深くかかわっています。たとえば結婚や出産は自分らしく生きるために必要なライフイベントかどうかなど、素直に真剣に“私”のセクシュアリティと向き合い考えることにより、より豊かな人生を送れるのではないでしょうか。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。