Meiji.net

2023.06.14

「私のおなかは社会のもの?」:人工妊娠中絶をめぐるポリティックス

  • Share

政治に翻弄される“私”のセクシュアリティ

 前述の通り、ドイツはさまざまな論争や運動を通じて、中絶を女性の自己決定権として認める方向へと徐々に進み、2022年に刑法219条aの削除に至りました。そのちょうど同じ頃にアメリカでは、1973年の「ロー対ウェイド判決」の際に最高裁が下した「中絶は憲法で認められた女性の権利」という判断が覆りました。このことは、中絶問題が非常にセンシティブであると同時に、政治的・宗教的な判断に翻弄されやすい問題であることも示唆しています。

 実は、産児制限をめぐる法律、政策、制度、規範が一貫せず揺らぐことは、どこの国でも起こりうることで、歴史的にみても珍しくありません。

 たとえば、日本でも第二次世界大戦中に「産めよ殖やせよ」が国のスローガンとして掲げられ、国は国民優生法を通じて、いわゆる「健全者」による産児制限を禁じました。とりわけ参戦国にとって、子どもが増えることは将来の兵力および労働力増強を意味していました。

 戦争が終わり、男性たちが戦場から家庭に戻ると、ベビーブームが起こり、1947年から49年に約800万人の子どもが生まれます。すると、急激な人口増加に対して、受胎調節が推奨され、中絶への規制が大幅に緩和されていきました。

 さらに、「両親と子ども2人くらい」が家庭のモデルケースと言われるようになり、1960年代後半には、「単独稼得者の父親と専業主婦の母親と2人の子ども」が標準家族として広く受容されるようになります。

 しかし、第二次ベビーブームを経て、1970年代後半から出生数の減少傾向が顕著になると、今度は少子化対策が重要な政策の一つとなり、最近では不妊治療支援なども手厚くなってきました。

 つまり、完全にプライベートな事柄と考えがちな結婚・妊娠・出産に対して、これまで国は、そのときどきの政治・経済・社会状況に応じながら、規制や支援などを通じて介入してきたのです。

 こうした国の取り組みが規範そのものを左右する一例として、近年注目されている同性愛・同性婚をめぐる議論があげられます。日本は「LGBT理解増進法」を機に同性愛差別をなくす方向に進むのか、さらには同性婚を法的に認めるに至るのか。現在日本は、セクシュアリティをめぐる国家的取り組みの過渡期にあるといえるでしょう。

 妊娠・出産は個人の身体にかかわる事柄であり、また同性愛を含め個人のセクシュアリティは無二で多様なものです。だからといって自身の身体やセクシュアリティに纏わるすべての決定権は“私”にあるということではありません。他方で、歴史的産物である規制や規範に完全に縛られる必要もないのです。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

  • Share

あわせて読みたい