サッカーの幻想を意識することで変わること
2022年のワールドカップではアルゼンチンが優勝しました。このチームの中心であったメッシは、これで、アルゼンチンのカルト的な英雄であるマラドーナと肩を並べることができるかと言うと、おそらく、それは難しいのではないかと思います。
というのも、個人技を重視するアルゼンチン・サッカーの幻想の根底には、貧しくてボールもスパイクも買えない劣悪な環境の中からこそ名選手が生まれる、という物語(ナラティブ)があります。でこぼこの空き地で跳ねも転がりもしない靴下をボール代わりにしていては、まともにパス回しができるはずもなく、その結果、足の裏でボールを巧みに操り、フェイントや股抜きで相手を出し抜くドリブルの技術が磨かれる、というわけです。
ブエノスアイレス郊外の貧しい家庭に生まれ育ったマラドーナが、アルゼンチンサッカーを規定するこうしたナラティブを誰よりも強く体現する存在である一方、子どもの頃にヨーロッパに渡り、バルセロナという世界で最も先進的で整備された環境で育成されたことが広く知られているメッシは、そのナラティブに乗ることができないのです。
スポーツが生み出す熱狂は、既存のナショナリズムを強化するだけでなく、それを変化させる力も持っています。
例えば、フランスが1998年のワールドカップで優勝したときには、中心選手のジダンがアルジェリア移民の子であったことから、フランス社会でアルジェリア移民との融和が進んだと言われました。
もっとも、それは優勝という熱狂、祝祭の感覚がもたらした一時的なものに過ぎなかったのかもしれません。それでも、社会を変革しうるきっかけを、サッカーはこれからも私たちに提供してくれるはずです。そのきっかけを育んでいくことを試みるのは、私たち民衆の方なのです。
サッカーをはじめ、スポーツがエモーションを喚起することは、とても素晴らしいことです。これは、スポーツがもたらす大きな魅力であり、なくしてはいけないものだと思います。
一方で、なぜ、私たちは、実は、近親者でもない代表の選手たちをここまで応援し、共感し、熱狂するのか、そのことを少し考えてみてください。
私たちひとりひとりが帰属していると信じている「我が国」の姿は、メディアを中心に創造されてきた幻想のバイアスを通してのみ明確に把握されるのです。スポーツが生み出す熱狂的な一体感は、とても楽しく心地良いものですが、そこから一歩引いて見てみるならば、こうしたナショナリズムの成り立ちと構造について考えるよいきっかけにもなるのではないかと思います。これも、「スポーツの楽しみ方」のひとつと考えてみてはいかがでしょうか。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。