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2018.02.28

このままでは、日本は武器輸出大国になる!!

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戦後すぐから始まった武器輸出を求める動き

 そもそも武器輸出三原則とはどのようなものだったのでしょうか。武器輸出三原則は、1967年に佐藤栄作首相が国会答弁で、①共産圏諸国向け、②国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向け、③国際紛争の当事国またはそのおそれのある国向けには武器を輸出してはならない、と答弁したことに始まり、つづいて1976年に三木内閣が三原則の対象地域以外でも武器輸出は原則禁止としたことによって、全面禁輸原則として強化されました。しかし、三原則の改訂・緩和を求める動きは、ほぼ同時期より始まっています。

 1945年、敗戦の年に設置された経団連の防衛生産委員会は、早くも1962年には武器輸出承認に消極的な政府に対して不満を表明していましたが、それとは別に1951年に日本技術生産協力会が創設され、それが翌52年には兵器生産協力会に、さらに53年には日本兵器工業会へと改組・改称を、そして体制の整備を重ねてきております。これが現代の日本防衛装備工業会の前身です。兵器を生産する民間企業の組織が、兵器の輸出促進を長年にわたり強く要請し続けていたのです。

 比較的最近の事例に即して言えば、1995年に経団連防衛生産委員会と日本防衛装備工業会が政府に対して武器輸出三原則の見直しを要請し、その2年後に開催された日米安全保障産業フォーラムでは、日米合計24の企業によって防衛産業の基盤維持の方策が検討されています。その後、経団連が発表した意見書「今後の防衛力整備のあり方について」を受けて、2005年には小泉政権が弾道ミサイル防衛システムの共同開発は三原則の対象外と発表しています。ここに例外規定という抜け穴が生まれました。つづいて2011年には民主党の野田政権が、平和・人道目的や国際共同開発への参加であれば武器の輸出を容認するとして、武器輸出を「包括的に例外化」しました。この段階で、三原則は実質的に改訂されてしまっていたのです。

 以上が、2014年に武器輸出禁止が武器輸出容認・奨励に転換するまでの大まかな経緯です。政府・財界が指摘する三原則見直しの理由としては、①ミサイル防衛システムの日米共同開発・生産の障害除去、②技術面での国際競争力の維持、③高度兵器技術開発における国際協力の必要性などが指摘されていますが、いま私たちが人類共通の課題として追究しなければならないのは、そうした直近の事情だけではなく、過去100年以上にわたって武器輸出の拡大を許してきた世界的な全体構造であります。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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