芥川龍之介のセルフプロデュース戦略
まず、芥川龍之介は、明治末から自然主義が衰退し始めたこと、つまり、世の中が求めることは自然主義ではなくなってきたこと、そして、自分の資質はどこにあるのかを理解していたことがあると思います。
実は、明治43年に創刊された雑誌「白樺」が注目を集め、そこに集っていた里見弴、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎らが、自然主義とは一線を画す作家たちとして、新技巧派と言われるようになっていくのです。
芥川龍之介も、彼らを新しいスターの出現のように仰ぎ見ていたところがあります。
例えば、武者小路実篤について、「文壇の天窓を開け放った」と言っています。普通の窓ではなく、空に向かった窓を開け放ち、文壇にまったく新しい空気を入れた、という意味です。
その彼らが、自然主義とは一線を画すという意味で新技巧派と呼ばれていたことに、芥川龍之介も憧れのようなものを感じていたのではないかと思います。
もちろん、それは単なる憧れだけではありません。
芥川龍之介は、夏目漱石から、「あなたの技巧は立派なもの」という評価をもらっています。つまり、夏目漱石にも技巧を肯定的に捉える考え方があり、それに優れていると芥川龍之介は評されていたのです。
それは、芥川龍之介にとって、自らの資質に対する自信になったと思います。だからこそ、文壇の新しい潮流に自分も連なる、という確信もあったのだと思います。
それが、「羅生門の後に」に始まるセルフプロデュースに繋がっていったと思われます。
さらに、芥川龍之介の側には、常に、「新思潮」の同士である菊池寛がいました。
大正6年当時、菊池寛は、実は、「時事新報」の記者をしていました。つまり、「羅生門の後に」の記事も、菊池寛がお膳立てをしたと言えます。しかも、その後、「羅生門の後に」の内容をたびたび紙面に取り上げたのも菊池寛なのです。
彼は小説家としてだけでなく、後に文藝春秋社を設立するほどの実業家でもあります。そうした彼の才覚が、友人であり、同士である芥川龍之介の売り出しに当たって、惜しみなく発揮されたとも言えます。
ちなみに、いまでは日本で最も権威ある文学賞である「芥川賞」を創設したのも、菊池寛です。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。