座右の銘、私のモットー「まるごと」であること
教授陣によるリレーコラム/座右の銘、私のモットー【14】
座右の銘とか、モットーとかいったものではなく、むしろ、自分につきまとってくる「厄介な言葉」として、フランス語の「intégrité(アンテグリテ)」という語があります。
日本語だとぴったりした訳語がないのですが、英語の「integrity(インテグリティ)」にあたる語で、辞書には「廉潔さ」などの訳語がのっています。ただ、私は、この語をむしろ「まるごとであり、損なわれていない(インテグラル)」という、語源に近い意味でとらえています。
似た言葉に「sincérité(サンセリテ)」もありますが、こちらは「誠意」「正直さ」といった、どちらかというと他者へと向かう心のありかたであるのに対し、intégritéは「自分自身がどうあるのか」という、自分のありかたにかかわるものです。自分に正直であることによって相手を尊重する態度がsincéritéだとすると、intégritéのほうは、自分自身を裏切らずに、状況の中に立っているような感じでしょうか。
たとえば、自分の中にあるものも含めて、欺瞞や虚偽を知っているのに気づかないふりをしたり、見逃したり、放置したりすることは、intégritéを失っていることになります。けれども、intégritéを失うまいとすると、状況に対する摩擦が大きくなることもあります。そこで、自分は、どうするのか――。
また、intégritéには、「(質的に)欠けたところのない」という意味もあり、これは、おそらく、文芸翻訳において、私が守りたいと思っているものと深くつながっています。
翻訳とは、人になにかを「届ける」行為ですが、そのときに、なるべくこわさないように、「まるごと」届けたい、という思いがあります。けれども、原文を立てれば、日本語が立たない、意味を立てれば、リズムがくずれる、流れがとまる、トーンが合わない。そうなれば結局は意味すらも届かない――。翻訳をするというのは、そういうひっきりなしの「板挟み」のなかで、それでもなんとかして、「まるごと」の何かを届けようとすることです。
その苦しさの感覚が、私の場合、翻訳でも、実生活でも、あまり差がないように感じます。これをやったら、あるいは、これをやらなかったら、自分が自分でなくなる、自分を裏切ることになる、そういうラインがどこかにあって、そのラインに引き回されながら、しなくてもいいような微調整を重ねているのに、解決策はまったく別の場所にあったりする。
ですから、糧になる語というよりは、厄介で面倒な状況にばかり私を追い込んでくる語なのですが、それでも私がこの語の引力にどうしても抗えないのは、おそらく、私の好きな詩や、音楽の演奏、芸術作品というものが、どこかで何かを突破して、その絶対に手の届きそうにないintégritéの状態を実現したもののように見えるからなのかもしれません。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
