社会が押し付ける「普通」から自由になるには
私見では、日本の「おかまキャラ」の表象は、現代のメディアでも形を変えて、あるいはさほど変化をしないまま生き残っています。
「オネエ」と呼ばれる人たちのテレビバラエティでの立ち振る舞いや、漫画『ONE PIECE』に登場するドラァグクイーン風キャラクター、「オカマ拳法」の使い手などがその例です。これらは現実の多様なセクシュアリティとしばしば混同されることで、「おかまキャラ」のステレオタイプを再生産している側面があるかもしれません。
また、LGBTQを題材にした現代の映画作品やテレビドラマの中にも、戦後の「おかまキャラ」の延長的な表象が見られます。たとえば、ゲイカップルの日常を描いた作品ではしばしば、一方を「男性的」でもう一方を「女性的」とする構図が物語内に潜んでおり、とくに「女性的」な方の仕草や感情表現として積極的に肉体的接触を求める(かつ「男性的」な方がそれを避けようとする)など、過去に形成された「おかまキャラ」の演出と接続しているようにも見受けられます。
いずれにしても、セクシュアル・マイノリティをめぐる表象は、製作者側もまだ描き方を模索している最中だと思います。今後の表現の可能性を広げるうえで、その歴史的文脈を理解し、どのように社会の規範と接続してきたのかを分析することが重要だと考えます。
このように映画やテレビ、漫画における表象を読み解くことで、私たちは社会が押し付けてくる「普通」のかたちから少しずつ自由になれるのではないでしょうか。男性はこうあるべき、女性はこうであるべき、セクシュアル・マイノリティは見えない存在であるべき——そうした社会が押し付ける規範を見直すためにも、表象の歴史を丁寧に検証することが必要です。
芸術作品やポップカルチャーは、現実の鏡であると同時に、未来への問いかけでもあります。私自身もまた映画研究を通して、多様な生のあり方が可能である社会をつくる一助となれたらと思っています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。