「裁判所のため」でなく「利用者のため」の運用を
さらに、裁判資料の電子化が進めば、閲覧制度の見直しも必要でしょう。公開原則の趣旨に則り、民事訴訟の裁判資料は裁判所で申請すれば閲覧することが可能です。しかし、現在の制度では閲覧手続が煩雑で、裁判所まで足を運ぶ必要がある点が課題となっています。
電子化により遠隔で閲覧が可能になれば、裁判の透明性向上にもつながるでしょう。ただし、資料には個人情報やプライバシーに関わる記載も多くあるため、その公開範囲の見直しやアクセス制限のバランスが問われます。
ところで、最近では、AIの裁判への活用も注目されています。アメリカでは判例調査や裁判資料整理といった業務にAIを活用する動きが進んでおり、AI専門のリーガルテック企業も登場しています。
さらに、裁判の判断そのものにAIを用いることができるかという議論も始まっています。AIは感情に流されずに判断を下すというメリットもありますが、人々の「AIに裁かれること」への心理的抵抗感は小さくありません。このような新しい技術と人間性の融合が今後の大きなテーマとなるでしょう。
また、裁判手続のデジタル化を進める上で避けて通れないのが「デジタル格差」の問題です。高齢者を中心に、インターネットの利用に不慣れな人々が依然として存在します。誰もが裁判制度を平等に利用できるようにするためには、こうした人々を支援する制度の整備が不可欠です。すなわち、オンライン手続を推進しながらも、従来通りの紙と対面を基軸とした手続を選択肢として残す等の、柔軟な制度設計が求められます。
いずれにしても重要なのは、デジタル化が「裁判所や弁護士のため」のものになってはいけないという視点です。裁判手続のデジタル化はあくまで一般市民がより使いやすく、アクセスしやすい司法制度を実現するための手段であるべきです。裁判所の都合だけで制度を変えてしまえば、利用者の利便性が犠牲になり、本来の目的を見失うことになりかねません。
もちろん、デジタル化によって裁判手続に当然求められる正義の観念が変わることはあり得ません。しかし、その正義を実現するための制度や理論は、時代とともに進化し続ける必要があります。法の下の正義を実現するために、どのような制度がどこまで認められるのか、また、それを説明するための理論は今まで通りでよいのか。今まさに新たな研究のフロンティアが現出していると言えるでしょう。
私自身、民事手続法という、ある意味完成されたと思われてきた分野を研究してきた中で、デジタル化という大きな波がこれまでとは異なる視点を与えてくれたことに大きな意義を感じています。
もしかすると、これまで研究してきたものをすべて捨て去って、一から新たに研究し始めなければならないかもしれません。しかし、そのように研究しがいのあるテーマに取り組むことができることこそ、研究者冥利に尽きるものと私は考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。