私たち自身で、表現の自由の新しいあり方を考える
最近、私が注目している変化のひとつが、インターネットの発達による表現の自由についてです。
例えば、インターネットはパブリック・フォーラムであるという議論があります。パブリック・フォーラムとは、著名な法学者でもあった伊藤正巳裁判官が提唱したもので、公園や広場などの公的に所有・管理される施設は、人々が集まり、表現活動をする場所として有用であるという理論です。
では、インターネット上で行われているSNSなどがそれに該当するのかと考えると、実は、疑問があります。
まず、パソコンやスマホなどは個人が購入した個人の所有物(個人や企業の所有するパソコンのサーバーの結合がインターネット)です。そうした個人の道具によって行われるSNSを、パブリック(公)の所有、管理する財産によるフォーラム(場所)というのは難しいと思います。
しかし、パブリックを公共の関心事(私たちが、他者と共に共同生活を営むために私たち市民が考えるべき事柄)と捉えることもできます。例えば、SNSなどで、政治のことや、同性婚のことなどを私たち自身の共通の関心のある事柄として議論するものと捉えるのです。つまり、インターネットの物理的環境自体がパブリックなのではなく、そこで議論される事柄がパブリックではないかということです。
ただし、道具があれば、世界中の誰にでも議論の場が開かれている、誰もが議論を見たり参加したりすることができる、という意味では、フォーラムではなく、スクエア(空間)だと言えます。つまり、インターネットとは、パブリック・スクエアではないかというわけです。フォーラムもスクエアもどちらも同じような響きもしますが、公なのが物理的な場所なのかそれとも議論の事柄(トピック)なのかで区別して考えるのです。
インターネットが普及する以前は、情報発信は、そのための道具を持っていた新聞社やテレビ局などが中心で、私たち市民にとっては、そのアクセス権が重要でした。そんな私たちにとって、情報発信や表現が行えるフォーラムは貴重であったわけです。
しかし、私たちも容易に情報発信ができるようになったいま、そこは、誰もが行き交うスクエアとなり、むしろ重要なのは、そこでどういった話題を選んで、どのように議論をするか、という事柄が重要になっているということです。
例えば、ヘイトスピーチや個人に対する誹謗中傷、プライバシーの侵害、猥褻画像なども発信されているスクエアを、パブリックと呼ぶことができるでしょうか。
インターネットが普及して情報発信の手段が広がり、パブリックや表現の自由という概念も変わってきています。それにともなって、適用される法律が時代遅れとなり、現代社会に則した法律が作られていくはずです。
それが、どのようなきっかけで、どのように作られていくのか、研究者としてウォッチングしていきたいと思っています。ただし、それは、裁判所の判決に注目することだけではありません。きっかけとなるのは、裁判所の違憲判決ばかりではないのです。
私たち市民自身が考え、その結果、多くの人たちが情報発信について自らをコントロールするようになったり、政治家や行政に働きかけたりすることで新たな法律が生まれることもあるのです。
むしろ、社会に則した法律の改正が先で、裁判所がそれを後追いするような社会のあり方が、健全と言えるのではないかと思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。