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アメリカによる「封じ込め」の世界戦略

 ケナンは1926年に米国務省に入省し、バルト三国やドイツでの訓練、ソ連滞在などを経てロシア問題の専門家となりました。第二次大戦が終わる前後には、在モスクワのアメリカ大使館で代理大使を務めています。

 終戦翌年の1946年2月、ケナンはモスクワから5000語以上におよぶ秘密外交電信を国務省へ送付し、その翌年には米国の外交・国際政治専門誌に匿名で「ソ連の行動の源泉」という論文を発表しました。

 その中でケナンが使った「封じ込め」という言葉が、当時のアメリカ政府のトップエリートたちの思考の枠組みを形成し、以後40年以上にわたる米国の冷戦政策の基本原則となっていったのです。

 「封じ込め」構想の要諦は、米国が地政学的に重要な国と協力関係を構築し、ユーラシアを囲む形で力をうまく均衡させ続ければ、やがてソ連のほうから穏健化し、共産主義勢力を漸進的に弱体化させられるだろうというアプローチにあります。

 ケナンは戦争という手段自体を完全に否定こそしませんでしたが、積極的に認めてはいませんでした。軍事力でもってしてソ連を叩き潰すのではなく、あくまでレアルポリティーク(政治上の現実主義)の論理に基づいた均衡状態の維持を主眼としたのです。

 事実、構想初期には米・英・独(および中欧)・ソ・日の「5つのパワーセンター」という考えを打ち出しています。これはソ連の「封じ込め」の負担をアメリカと英独日で分かち合う理想型です。ケナンは、ドイツと日本を経済復興および民主化させれば、必ずしも軍事同盟を結ばなくともよいと考えていました。

 しかし、現実にはマーシャルプランなどの経済援助のみでは構築は困難で、特に西欧はソ連の進出に自力で対処することはできません。ゆえに米国の外交政策として、ヨーロッパにおいてはNATO(北大西洋条約機構)、日本においては日米安保条約といった軍事同盟を締結することになりました。

 また、ケナンは核兵器を「過剰抑止」と考え、終始一貫して否定的でしたが、実際に米国がとった戦略は核抑止論であり、米ソは核開発競争に邁進しました。人類を何度も絶滅させられる数の核兵器を保有する「オーバーキル」の状態は、力の均衡の観点から見ても明らかに異常であったと思います。

 このようにケナンの戦略構想の全てが米国の政策と合致したわけではありません。しかしながら、彼が1947年時点で予言したように、米ソの力が均衡する国際秩序を形成・維持し続けたことで、結果的にソ連は消滅し、西側は冷戦に勝利しました。その事実こそが「封じ込め」の有効性を何より証明していると思われます。

 では現在、ロシアの侵攻と中国の台頭を目の当たりにしている私たちは、東西冷戦とケナンの構想から、いかなる教訓を得ることができるでしょうか。

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※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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