かわいそうと思わせるだけの戦争報道
ウクライナに対して、ロシアともう少し上手く外交するべきだったという議論もあります。確かに、そういった視点もあると思います。
しかし、例えば、ソ連邦時代は同じような国力、経済力だったポーランドがEUやNATO入りしてからめざましく発展し、豊かになった現実があるのです。
一方で、ロシアによる内政干渉が頻繁にあり、思うような政治体制もとれない、経済発展もできないウクライナにとって、ポーランドの後を追うことは、当然のことです。そのために、ロシアとの交渉をウクライナは続けていたのです。
そうしたウクライナの願望を、プーチン大統領の認識や理論が認めようとしないのは、アメリカ対ロシアという図式が、ロシア対ウクライナにもあることです。
つまり、ロシアは、アメリカが構築した国際政治体制の下でアメリカの手下になることを拒みながら、かつてソ連邦が構築した政治体制の下にウクライナを手下として位置づけているのです。
アメリカ的な価値観を、それが唯一のものではないと受け入れないロシアが、ウクライナにロシアの価値観を押しつけるのはあまりにも自己矛盾しています。それだけ、プーチン大統領は強烈なルサンチマンを抱え、合理性を破綻させているのかもしれません。
メディアが、冷戦終焉の背景や意味、そしてロシア人のルサンチマンをもっと精緻に分析し、情報発信していれば、世界がロシアを見る目、また、ロシアが世界を見る目が異なり、無用な対立や紛争は避けられたかもしれません。
だとすれば、戦争に至ったこの間の報道を見直すことは、非常に重要なことだと考えます。
また、戦争報道においては、被害を受けた市民を大きく取り上げ、そうした悲惨な状況を終わらせるために戦争をやめるべき、という論調になりがちです。
もちろん、市民の悲惨な状況を伝えることは必要です。しかし、それが、「かわいそう」、で終わってしまっては、これもまた、報道の役割を果たしているとは言えません。
いま、ウクライナの人々には、自分が犠牲になっても、将来のウクライナのために頑張らなくてはならないという思いがあります。
ロシアの属国扱いのままでは、表面的な平和はあっても、本当の人権や表現の自由は得られず、自分たちのことを自分たちで決められない状況を強いられるからです。
破壊された建物、担架で運ばれる妊婦、泣きじゃくる幼い子の映像を流すとき、そのような、心が痛くなる事態を起こさないためにウクライナは降参しても良いではないか、と思いがちです。でもそのようなことが今後起きないように、いま、彼らは戦い、市民は犠牲を甘受していることも、メディアは伝えるべきです。
そうした複合的な報道があって初めて、読者や視聴者は自分なりに考え、判断することができると思います。悲惨さだけを強調し、最初から、かわいそうと思わせるだけの報道では、ある意味、無責任でしかありません。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。