ポピュリズムを否定しても何も解決しない
今回、反EUを掲げていたルペン氏が負けてEU崩壊の危機を免れ、世界的に安堵し、ポピュリズムが退潮したと歓迎するムードがあります。アメリカのポピュリズムであるトランプ政権が強い自国主義を打ち出していることで、ポピュリズムに対する懸念や、批判的に見る傾向があるからでしょう。しかし、そもそもポピュリズムとは何であるかを考えると、ポピュリズムを否定しても、解決にはならないことがわかります。
ポピュリズムには様々な定義がありますが、日本では大衆迎合主義などと訳されています。そのため、既成支配勢力、いわゆるエスタブリッシュメントに対する反発、格差不平等に対する不満、こうした民衆の反発や不満を利用して支持を得る政治家の上からの手法というイメージが強いようです。しかし、ポピュリズムという概念が生まれた背景を見ていくと、フランス革命により、人民主権が始まったことに由来することがわかります。それまで権力は王にあったのですが、革命により、人民に認められた権力が正統であるとされるようになったのです。そして、人民が主権をもっている以上、その人民の意見、いわゆる民意に耳を傾けて政治を行うべきという考え方が世界の主流になっていきました。これが、ポピュリズムの淵源です。すなわち、ポピュリズムとは、単にその時々の大衆の意見に迎合した政治ということではなく、人民による支配、という民主主義とともに生まれた概念であり、民主主義とポピュリズムは不可分であるともいえます。
では、人民とはなにかというと、実は、その実体はどこにもありません。例えば、現実的には、個々人の不平等も格差の不満もあります。革命以前は、宗教とか伝統的な考え方というものが身分制を正当化し、社会をまとめてきました。革命以後、そうしたものが否定されると、拠り所となったのが民主主義という理念です。民主主義社会の支配者は人民なのだから、いま行われている政治は、我々人民の意思に基づく政治なのだと信じることで、個々人の現実にある不平等や格差は、ある意味で正当化されてきたのです。この支配者としての「人民」という存在はフィクションですが、その政治的一体性を前提にして人民による支配は成り立っています。この意味で民主主義は、人民という一体性を信仰する代替宗教とも言えます。ただ、これは、民衆に自分たちを一体のものとして「代表(再現前化)」してくれていると信じ込ませる強い指導者が、いわば司祭のように登場する土壌にもなり得ます。
ところで、20世紀には民主主義とともに市場主義、資本主義が進行します。すると、一方で資本による支配、独占が生まれ、格差はさらに拡大するとともに、社会は分断し、人々は孤立化し始めました。20世紀後半から進み始めたグローバル化がそれに拍車をかけます。これに対して、分断し、孤立化した個々人は自分たちが「代表」されていないと強く感じ、やはり人民という一体性を求めることになります。結局、不平等や格差に不満をもち、それを生んだ現行の政治体制に反発することは、人民の一体性をあらためて求める動きでもあり、それはまさにポピュリズムの動きということになります。しかし、民主主義に由来するものである以上、この動きを否定するだけでは、何かが根本的に解決するわけではありません。むしろ、ポピュリズムと真摯に向き合うことが重要であることがわかります。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。