阿川佐和子さんと齋藤孝教授で語る「オンライン時代の対話力」

「『会話』と『対話』は同じような意味で使われることがあります。でも、私は対話は会話よりもクリエイティブなものだと思っています。」こう語るのはコミュニケーション論を研究する明治大学文学部の齋藤孝教授。
今回、「対話力」をテーマに、エッセイストで週刊誌でのインタビュアーとして輝かしい実績を持ち、テレビ番組でも活躍している対話のプロフェッショナル・阿川佐和子氏と齋藤教授の対談が実現。「会話」と「対話」は何が違うのか、対話だからこそ得られる喜びは何なのでしょうか。『対話力』(SBクリエイティブ)から抜粋して紹介します。対話に人生を“盛り上げる”ヒントが隠されているかもしれません。
阿川 佐和子
1953年、東京都生まれ。エッセイスト、作家。
齋藤 孝
明治大学文学部教授。 教育学、身体論、コミュニケーション論が専門。
オンライン時代の対話について
リモートではタイミングや空気感がつかみにくい-阿川
コロナ禍で、リモートによる対話の機会が一気に増えましたね。私も何度かリモートで対談をしましたが、一長一短あるなと思いました。
長所としては、今まで遠くに住んでいる方との対談は、日程調整がなかなか難しくて実現させるまでに時間を要していましたが、リモートだと瞬時に実現できる。ニューヨークに住んでいる方と対談するのも、ご近所に住んでいる方と対談するのもまったく同じように気軽にできるんだということに気づきました。
ただ、なんといっても短所は、面と向かって会話をするときのような親密な関係を作るのが難しいことでしょう。音声が途切れがちになったり、タイムラグが生まれたり、まるで外国語のゲストと通訳を介して話をしているときのように、ギクシャクしてしまいます。特に私の場合は、相手の話している途中で、「へえ」とか「そんなことがあったんですか?」とか、合いの手を入れることが多いのに、画面を通してだと合間にちょこちょこ言葉を挟むのが難しくなります。そして、画面に映っているとはいえ、相手の細かい表情の変化や素振りや心情をつかむのも、リモートだと難しいですね。
同じ室内で、近い距離で目を見ながら話をすることが、いかに互いの心理を察しながら行っていたか、逆に思い知った気がします。
今後、このリモート対話というものが、コロナにかかわらずどう進展していくかわかりませんけれど、「要点や結論が大事」という事務的な対話においては、大いに有効だと思いますし、反対に、顔色を窺いつつ、ときにぐだぐだと話をしたいという場合は、やはり本人と会って、間近で話をすることは捨てがたいコミュニケーション方法だと思います。
ボディーランゲージに慣れていない文化-齋藤
たしかに、リモートだと空気感がつかみにくいですね。新型コロナの影響で授業がオンラインになった当初は、少し大変でした。私の授業では学生との対話を重視していますが、オンラインではどうしてもそのやりとりが希薄になってしまいます。しかも、当初はズームの画面に学生の顔が出ていなかったので、真っ黒な闇に向かって話しているような不安な気持ちになりました。すぐに顔が出る設定にしてもらったのでホッとしました。
それでも、顔が出ているだけではライブ感が出ません。そこで話が面白いときは手をたたく、大丈夫なときは手で丸を作る、驚いたときは手を広げるなど、そのつど画面上で身体的なリアクションをしてもらうようにしました。そうすることで、徐々にオンラインでも実際に対話をしているときのようなリアル感が出るようになりました。
リモートでは空気感が伝わりにくいので、ボディーランゲージなどの身体的なコミュニケーションを使って補う必要があります。しかし、それも普段からやり慣れているかどうかが問題です。やり慣れていないと、急には手も動きません。
イタリア映画などを見ていると、イタリア人は対話をするときにかなり手を動かしています。『ひまわり』という名画がありますが、主演のソフィア・ローレンが話しているときの手の動きがとても印象的です。まるで手で話しているといった感じです。
日本人はそういうことをあまりしませんが、リモートなどでは対面で話すときよりもしぐさや表情から発信される情報量が少ないので、手の動きなどを加えることで対話が深まりますね。
日本人が話をするときにあまり手を動かさないのは、一つには礼儀の文化から来ています。人と話すときは、座ったら手を膝の上に置く、立った姿勢なら手を体の脇につけるというふうに、手をバタバタしないことが礼儀正しいことだと教えられてきました。
武家社会では、人前で咳やクシャミをすることなども騒々しくてよくないことだとされていました。武士道について書かれた『葉隠(はがくれ)』にも、咳が出そうなときに止める方法が書かれているくらいです。そういう生理的なことに関しても、できるだけ抑制するのが礼儀正しいことだとされてきました。体を動かすことについては、いかがですか?
体全体で言葉を発せば気持は伝わる-阿川
話をしながら体を動かすというのは、先生がおっしゃる通り、昔の日本人はあまりしませんでしたね。話すだけでなく歌を歌うときでも直立不動がいいとされていた時代があります。東海林太郎さんがそのいい例です。でもいつの頃からか、歌うときに体を動かさない歌手はいなくなりました。動かすどころか踊ったり観客に指を差したりするようになった。
以前、石井好子さんが主催するシャンソンコンサートで私が歌うことになりまして。緊張して練習していたら、石井さんに、「最後はお客様に向かってこうやって両手を大きく開いて! 心を伝えなきゃダメです!」と、注意されました。そんなふうに歌ったことがなかったので照れましたが、実際、ステージで最後のフレーズで手を広げて歌ったら、なんだか気持がよかったです。
話をするときもそうかもしれません。齋藤先生が常日頃、おっしゃっているように、口から言葉を発するだけでなく、体全体で言葉を発してみる感覚は、手や足……? 足までは動かさないか。とにかく動作を加えることで、さらに気持が伝わるような気がします。
メールによる対話で気をつけたいこと
メッセージアプリでのやりとりにご注意-阿川
これだけメールやLINEのようなメッセージアプリが発達し、それを利用する人が増えてくると、将来的には、顔と顔を突き合わせて対話する機会はどんどん減っていくのでしょうか。私のようなアナログ人間にはちょっとつらい時代が押し寄せているようで、不安です。
というのも、顔を見ながら話をするのと、文字の対話のやりとりとでは、言葉の選び方や受け止め方がまったく異なってくると思うのですね。
たとえば、LINEでやりとりをしているとき、親しい友達関係だったとしても、相手から、「昨日、なぜ彼女にあんなこと言ったの?」などといったコメントが届いたら、ギクッとしますよね。もしかして自分はいけないことをしでかしたかと思い悩むでしょう。これが面と向かって言われた場合、声のトーンとか表情とかが加わるので、相手の真意をはかることができますが、この文面だけだと、笑って言っているのか、それとも本気で怒っているのか判断がしにくい。
同じ文面でも手紙で同じようなことを伝えようとしたら、もう少し説明を加えて丁寧に書くでしょうから、もし内容に怒りが含まれていたとしたら、受け取った側はちゃんとその意図を汲むことができるし、怒っているわけでないとすれば、こういう会話調の中途半端な書き方はしないでしょう。
メールやLINEの気楽なところは、手紙ほど構えることなく、まるで会話をしているかのような調子でやりとりができるところです。だからこそ、誤解が生じやすいと思います。
「お前はバカか!」
そう書かれたらムッとするでしょうが、目の前で笑いながら、「お前はバカか!」と言われたら、こちらも「なんだとぉ?」と笑いながら言い返すことができるでしょう。
もっとも面と向かって言うときでも、関東人と関西人の受け止め方は違うらしいので注意が必要ですよね。関西の人は「アホ」がからかいの言葉で、「バカ」は本気だと思うそうです。
とにかく、ネット上のやりとりでそういう誤解を生まないために、絵文字というものができたのだと理解していました。「お前はバカか!」のうしろにニッコリマークがあれば、あ、これは冗談だなとわかるし、「もう二度と遅刻しないでくださいね!」というコメントのうしろにハートマークがついていたら、むしろ愛情を感じてしまうかもしれない。
ただ、今の若い人たちは絵文字も使わないと聞きました。絵文字はむしろオバサンオジサンが好むようで、若い人宛てにこれを使うと「古ッ」と嫌がられるらしいです。となると、若者は、どうやってメールやLINEの誤解を回避しているのでしょう。
私はメールやLINEでやりとりを繰り返しているうちに、お互いの気持がギクシャクしてきたぞと思ったら、さっさと電話に切り替えます。話したほうがよっぽど真意は伝わると思ってしまうのですが、今の人たちは、電話を使いたくないらしいんですよね。
メールもメッセージアプリも対話ではない-齋藤
たしかに文字は少し面倒ですね。ビジネスの現場では、もはやほとんどのやりとりがメールになっています。メールには、それなりの利点があります。何と言っても文字データが残ることで、「言った」「言ってない」「聞いた」「聞いてない」といったトラブルが減ります。そういう意味では、ビジネスの現場ではメールはかなり有効です。LINEなどのメッセージアプリですが、あれは文書をやりとりするツールというよりも、会話をやりとりするお喋り空間ですね。
いずれにしろ、そのどちらも私が対話としてイメージしているものとは違います。対話というのは主にリアルな対面状況で行われるもので、お互いに議論を積み重ねながら、あるテーマについて考えを深め、「気づき」を生み出していくものです。その意味で、知的な喜びがあるものが対話だと思っています。
対話が難しい時代の対話
しっかりした関係性を築いておく-阿川
最近、会社などで上司が無口になっていると聞きます。無愛想なわけではなく、偉そうにしているつもりでもなく、でも部下に、特に女子社員には話しかけにくいのだそうです。どうしてかと訊ねると、
「だって、何を言ってもセクハラって言われそうで、怖いんだよ」
褒めるつもりで語りかけたら、「それって、セクハラですよね!」と、いつどのタイミングで訴えられるかわかったものではないという。なるほどこれでは無口にならざるを得ないのかと納得しました。
もちろん本当に悪質なセクハラやパワハラは今でも存在しますし、そういう脅威に対抗できる時代になったのはありがたいことだと思いますが、過度に敏感になると、言葉のコミュニケーションがどんどん貧しくなっていく心配がありそうです。
この間も、私が十センチほど髪を切って(自分で切っているのですが)仕事場へ行き、「あ、ずいぶん切ったね」とか「イメージ変わったね」とか言われるだろうと予測していたのに、誰も声をかけてくれないのです。特に男性諸氏は。女性は皆さん、「あら、アガワさん、思い切りましたねえ」などと言ってくれるのに、男性たちは、まるで目に入っていない様子。
「やっぱり男の人って、女が髪を切っても気づかないものなんだねえ」
ちょっと嫌味を言ったら、たちまち血相を変えて一人の男性が、
「違いますよぉ。気がついているけど、言えないんですよ。髪切りましたかなんて聞いたら、すぐセクハラだって言うでしょ?」
「髪切った?」ぐらいでセクハラだなんて言いませんよと答えたけれど、たしかにそういうたぐいの言葉は、誰が発言するかによって受ける印象は大いに変わるだろうと思いました。
要するに、言う人と言われる人の間に、ちゃんとした信頼関係ができていれば、少々荒っぽい発言だとしても聞き流すことができるのではないかと思うのです。
ときどき「インタビューをするときに、相手が嫌がる質問はどうやってするのですか?」と聞かれることがあります。できれば相手が嫌がるとわかっている質問はしたくないのですが、コトと場合によってはどうしても避けて通れないときがあります。そういうときは、質問をする前に、できるだけ「私はあなたの敵ではありません。味方です」という意志が伝わるよう、しばらく時間をかけて関係性を構築します。しばらく対話をしていけば、「コイツは敵意を持ってやってきたわけではないな」ということを理解してもらえます。初対面であっても、最初は警戒心があっても、しだいにわかってもらえるように会話を続けます。その上で、どうしても、聞かざるを得ないとなったら、言葉を選んで質問します。たとえば、
「写真週刊誌に載ったスキャンダルの真相をお話しください」
本当はこういうことが聞きたいのだけれど、それではあまりにも感じ悪いでしょう。そこで、「ちょっと伺いにくいのではありますが、先日の写真週刊誌の件……。撮られたときはさぞ驚かれたでしょうねえ」とか、「あの件については……、さんざん騒がれて、答えたくないでしょうが、ちょっとだけ?」とか、なるべく相手が鋭く反応しないよう気をつけながら、できれば明るく聞くことにします。
でもたいてい、事前に真摯な気持でちゃんと向き合っておけば、突然、怒って帰るなどという展開にはならないものです。そこは誠意を尽くすということが大事だと思います。
セクハラだけでなく、パワハラにしても、普段から上司と部下の関係が信頼できるものであると互いにきちんと理解し合っていれば、さほど大ごとになるとは思えないのですが、どうなのでしょう。何か一言、発言するたびに、「訴えられたら怖い」とビクビクしなければいけない社会になるのは、なんとも悲しいことだと感じます。
安易に質問することが難しい時代に-齋藤
たしかに関係性が大事ですよね。これだけハラスメントのことが問題になると、プライバシーや個人情報の問題とも絡んで、質問一つも簡単にはできない、容易に口にすることが難しい時代になったと言えるでしょう。「結婚しているの?」とか、「お子さんはいらっしゃいますか?」とか、そういったことを聞くだけで問題になりかねません。いったいどういうことなら聞いても大丈夫なのか不安になってしまいます。
その人の生活状況や容姿などに関係することではなく、好きな食べもののことや、その人がみんなに対してオープンにしている趣味のことなどなら聞いても構わないと思います。
阿川さんとお話ししていると、リラックスできて、NGを気にしないで話ができます。そんな安心感があると、内容に集中して深めることができやすいです。安心して対話できる関係性を築く力が対話力のベースですね。
阿川 佐和子
エッセイスト、作家。
1992年に檀ふみとの往復エッセイ『ああ言えばこう食う』で講談社エッセイ賞、2000年に『ウメ子』で坪田譲治文学賞、2008年に『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。2012年『聞く力――心をひらく35のヒント』が年間ベストセラー第1位、ミリオンセラーとなった。2014年に菊池寛賞を受賞。著書に『ことことこーこ』『看る力――アガワ流介護入門』(共著)『トゲトゲの気持』『空耳アワワ』(以上中公文庫)『いい女、ふだんブッ散らかしており』(中央公論新社)など。
齋藤 孝
1960年、静岡県生まれ。明治大学文学部教授。東京大学法学部卒業後、同大学院教育学研究科博士課程等を経て、現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。『身体感覚を取り戻す』(NHK出版)で新潮学芸賞。日本語ブームをつくった『声に出して読みたい日本語』(草思社)で毎日出版文化賞特別賞。ほかの著書に、小社刊『大人の語彙力ノート』『読書する人だけがたどり着ける場所』『書ける人だけが手にするもの』『20歳の自分に伝えたい 知的生活のすゝめ』『20歳の自分に教えたい日本国憲法の教室』など多数。NHK Eテレ「にほんごであそぼ」総合指導。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。