
なぜ不平等はなくならないのでしょうか。それは単なる偶然ではなく、社会の中で繰り返し再生産されているからです。家庭内のケア労働、ジェンダーロール、教育格差——私たちの日常に潜む権力関係が、構造的な不平等を支えています。本記事では、ミソジニーやいわゆる「弱者男性」の問題にも触れながら、見えにくい社会の不正義のメカニズムを考えます。
現代的な「個人主義」とリベラリズムの個人主義
現代社会は、しばしば「個人主義的だ」と言われます。しかし、その言葉にはどこか否定的な響きが伴っているように感じられます。「今だけ、金だけ、自分だけ」というフレーズに象徴されるような、目先の利益と狭い自己利益だけを優先する態度を指して「個人主義」と呼ぶ用法が広く流通しているからです。
そもそも、リベラリズムの一つの重要な系譜における個人主義は、こうした利己的な「個人主義」とは大きく異なります。リベラルな立場における個人主義とは、「個人はそれぞれ固有の尊厳を持つ存在である」という理解に基づくものです。
その意味で、リベラルな個人主義は、狭い利己性にとどまる「個人主義」を乗り越える必要があります。なぜなら、個人の尊厳は、孤立した状態で守られるものではなく、他者との関係や社会の制度や実践のあり方に深く依存しているからです。
人々のあいだの関係性や制度などが歪んでいれば、いくら理念として尊厳を掲げても、それは実質的に保障されません。したがって、個人の尊厳がきちんと守られる社会を実現するためには、人々が協力し合い、社会の仕組みそのものをより公正な方向へ整えていく必要があります。
このように考えると、リベラルな社会正義論において重要なのは、利己的な「個人主義」からリベラリズムを解き放ち、人々が協働してより公正な秩序を築くため、どのような価値や原理が求められるのかを分析することだと言えます。それは単なる道徳的スローガンではなく、制度設計や日常の実践にまで関わる、きわめて具体的な課題でもあります。
しかし、こうした議論を進めるうえで見落とされがちな視点があると私は考えています。それは「政治」の偏在です。つまり、「政治」が通常考えられるより広い範囲に存在していることです。ここで言う「政治」とは、国会や選挙、外交といった狭い意味での政治に限りません。むしろ、社会のさまざまな場面に浸透している「権力関係」そのものを指しています。
権力の問題は、「国家権力」という言葉に代表されるように、政治家や官僚といった特定の立場の人々が担うものだと理解されがちです。しかし実際には、私たちの日常的な振る舞いのあり方のなかに、広い意味での「政治」と「権力」は存在しています。家庭、職場、学校、友人関係といった身近な場面においても、人と人とのあいだには力の非対称性が生まれ、それが関係性のあり方を左右しているのです。
私の研究では、社会全体に広がるマクロな不平等は、こうした日常のミクロな場面における権力関係と切り離せないものとして捉えます。つまり、日常の中で繰り返される小さな力関係の積み重ねが、社会全体の不平等を形づくっているのだと考えています。
社会構造の中で内面化されるジェンダーロール
たとえば、家族内の関係を考えてみましょう。専業主婦として家事や育児を担う人が、配偶者の収入に生活を依存している場合には、ふたりの関係が悪化しても、経済的な理由から離婚に踏み切ることが難しくなる可能性があります。さらに、労働市場から長期間離れていれば、再就職のハードルは高くなり、選択肢は一層限られてしまいます。これが多くの女性が置かれている社会的なポジションだと考えられます。
このような状況では、パートナー間に経済的な権力の非対称性が存在していることになります。しかし、それは「権力」として十分に意識されないまま、あたかも自然な役割分担であるかのように受け止められてしまうことが少なくないでしょう。このように、ミクロな権力構造は当事者に「気づかれにくい」という性質を持つ場合がよくあります。
もちろん、このような問題は、個々の家庭にとどまるものではありません。こうしたミクロな権力関係は、男性は賃金労働を担い、女性は無償のケア労働を担うという性別役割分業、つまりマクロな構造と結びついています。ここでは、本来であれば社会的に重要なものと評価されるべきケア労働が無償化され、それが特定の性別に偏って割り当てられることで、社会全体の不平等が再生産されていると言えるでしょう。
では、こうした不平等に対して、社会はどのように向き合うべきでしょうか。「現実がそうなのだから仕方がない」と考える立場に対しては、平等の必要性を説いても響きにくいかもしれません。しかし、実際には、近代以前の身分制のように、生まれによって人生が大きく制約される社会を望むという人は少ないはずです。ここから言えるのは、立場が異なっても、正しい社会には「機会の平等」が必要だという点については一定の合意が得られるだろうということです。
この観点から見ると、ジェンダーロールの固定化の問題がはっきりと見えてきます。「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」といった規範は個人の選択肢を大幅に狭め、実現されるべき機会の平等に反するからです。その意味で、ジェンダー不平等は社会正義の理念と両立しないことは明らかだと言えるでしょう。
もっとも、機会の平等をどの程度まで実現すべきかについては議論がありえます。形式的に「差別してはならない」と法律で定めるだけで十分なのか、それとも実質的な平等を実現するために社会が積極的に介入すべきなのか。
私は、後者の立場をとります。なぜなら、家庭環境や学校教育の中でジェンダーロールは無意識のうちに内面化されていくため、単なる法的禁止だけでは不平等の再生産を防ぐことができないからです。
こうした問題に対処するには、一定のリスクを伴うとしても、国家や社会制度による介入が必要になります。たとえば、議会における女性の割合を一定以上にするクオータ制や、アファーマティブ・アクションと呼ばれる積極的措置がその一例です。これらは恒久的な制度というよりも、社会の構造が変わり、性別による偏りが自然に解消されるまでの過渡的な手段と位置づけられます。
さまざまな不平等は、家族、教育、政治といったさまざまな領域に存在する権力の構造の中で形成されていますから、それを是正するために別の形で権力を用いることは不当な介入ではなく、既存の力関係に対抗し、バランスを取り戻す試みと理解することができます。
ミソジニーと「弱者男性」の社会的形成過程
日本社会は他の先進国と比べて、政治や企業活動といった分野で意思決定を行う立場にある女性が少なく、男性が多数を占めています。私が所属している学問・研究の分野も例外ではありません。この偏りは単なる人数の問題にとどまらず、女性蔑視や女性嫌悪(ミソジニー)が生じやすい土壌とも関係していると考えられます。
特定の職業や職場で男性が多数を占める状況においては、男性同士の結びつきが強いコミュニティ(いわゆるホモソーシャル)が生まれやすくなります。その内部のコミュニケーションを通じて、女性に対する無意識の軽視や偏見が再生産されることがあります。
たとえば、研究分野に女性が少ない理由を「幼少期からの教育のあり方や社会的な刷り込みの結果」として理解するのではなく、「男性の方が理性的で研究に向いているから」と説明してしまう傾向は、既存のバイアスを正当化し、不平等を固定化する働きを持ちます。
最近、大学教員が業者から不適切な接待を受けていた問題が注目されましたが、こうした出来事の背景にも、男性中心の閉じたコミュニティ(ホモソーシャル空間)と、その中で醸成される価値観が影響している可能性があります。つまり、この問題は個別の不祥事としてではなく、構造的な問題として捉える視点が求められます。
ところで、ジェンダーロールは女性だけを制約するものではありません。男性に対しても、「一家を養える経済力を持ってこそ一人前である」といった規範が依然として強く残っています。しかし、このモデルは高度経済成長期のような特定の時代に成立していたものであり、現在の日本社会では維持が難しくなっています。
その結果、現在、とりわけ非正規雇用などで収入が安定しない男性にとっては、結婚や家庭形成が困難になるという問題が生じています。いわゆる「弱者男性」問題と呼ばれる状況です。この背景には、女性側もまた男性に対して「稼ぎ手」としての役割を期待する傾向が残っているという側面があります。つまり、ジェンダー構造は男女双方に負の影響を及ぼしているのです。
問題なのは、こうした構造的な問題が正しく理解されず、不満の矛先が女性個人に向けられることです。とりわけ、ネット上の言説などで、その傾向が強く見られます。「男性は女性から軽視されている」という誤った認識のもとで、ミソジニーが女性への攻撃として表出するケースがあります。
私の見方では、すでに従来型の男性優位の経済・社会構造が維持できなくなっているにもかかわらず、それを無理に保とうとする圧力がこうした攻撃的な反応を生み出しているのだと考えられます。
批判の矛先は本来、社会構造の不正義そのものに向けられるべきです。この連関を正しく理解しないまま「女性個人の振る舞いが原因である」という誤った結論に至ってしまうことが、問題をさらに深刻にしています。
大学が「教育格差」の再生産に加担しないためには
以上で見てきたように、社会に存在する不平等は、偶然に生じているのではなく、むしろ繰り返し再生産される仕組みの中で維持されています。その過程には教育も深く関わっており、非常に根の深い問題となっています。
たとえば大学は、家族ごとの親子関係や教育投資の差が学歴の差を生み、その結果として職業や所得、社会的地位の違いへとつながる一連のプロセスの中核に位置しています。言い換えれば、大学は不平等を生み出す仕組みの一部を担っているという側面を否定できません。同時に、大学のような研究や教育の現場では資金や地位をめぐる権力が作用しやすく、ハラスメントなどの問題が生じやすい場でもあります。
現代社会では、人材の選抜や配分を主に学校教育システムが担っています。そのため、大学に進学するかどうか、どの大学に進むかといった選択が、その後の収入や社会的評価に強く影響を及ぼしているという指摘は、全体的傾向としては事実に即しています。そして、その人が家庭を築けば、次の世代にも「教育格差」が生まれ、そうした不平等は世代を超えて引き継がれてしまいます。
しかし、こうした格差維持のメカニズムが存在するからといって、そこで思考を止めるわけにはいきません。重要なのは、まず、そのメカニズムについて知ることです。不平等の維持の仕組みや、それによって不利益を受けている人々の存在を理解しなければ、社会を変えようとする動機は生まれません。
したがって、ここで大学の役割が改めて重要になります。社会の仕組みを分析し、言語化する専門的な知識は、主に高等教育機関に蓄積されているという事実があるからです。それゆえ、大学は一方で不平等の再生産に関与しつつも、他方でそれを問い直し、是正するための「知」を提供できる、きわめて複雑な立場にあると言えるでしょう。
だからこそ、大学や教育に携わる者は、その矛盾を自覚しながら、不平等を可視化し、それに対抗する知識を社会に還元していく責任があります。
最も深刻な不正義とは、不条理が存在しているにもかかわらず、それが問題として認識されず、言葉にもできない状態に置かれることです。すべての人がよく生きられる完全に正義にかなった社会をすぐに実現することは難しいとしても、少なくとも不条理を強いられない社会へと近づけていく。そのために、知識を通じて社会に働きかけていくことこそが、私たちにできる重要な役割だと考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
