
2025年、最高裁判所は生活保護基準の引き下げをめぐり、初めて国の判断の一部を違法と認定。裁判所が特に問題視したのは、引き下げ幅の妥当性ではなく、その政策決定プロセスでした。なぜ、生活保護は政治の争点となったのか。そして、この判決は私たちに何を問いかけているのか。豊富な現場経験を持つ社会福祉研究者が、その背景と意味を読み解きます。
生活保護制度をめぐる“歴史的判決”が問うたもの
2025年6月27日、最高裁判所は、2013年から2015年にかけて実施された生活保護基準の大幅な引き下げについて、その一部を違法と認定し、生活保護費の減額処分を取り消す判決を言い渡しました。生活保護制度が1950年に始まって以来、最高裁が生活保護基準の引き下げを違法と判断したのは初めてのことです。その意味で、この判決は歴史的な意義を持つものだと言えるでしょう。
当時の基準改定は、「ゆがみ調整」と「デフレ調整」という二つの手法を組み合わせて実施されました。ゆがみ調整とは、世帯構成の違いによって生じていた基準額の不均衡を是正するための手法です。最高裁はこの手法自体については適法と判断しています。一方、物価下落を反映させるために導入されたデフレ調整については、厚生労働大臣の判断過程や手続きに問題があったとして、違法との判断が下されました。
この判決を受けて厚生労働省は同年11月、対応方針を公表しています。適法とされたゆがみ調整は維持する一方、違法とされたデフレ調整については、当時採用された「マイナス4.78%」と、専門委員会が算定した「マイナス2.49%」との差額分を支給するとしました。また、原告に対しては特別給付を実施する方針も示されました。
この判決において特に重要なのは、最高裁が問題視したのが基準引き下げの結果そのものではなく、その決定プロセスであった点です。裁判所は、国が不適切な統計手法を用いただけでなく、本来であれば専門家による審議を経るべき事項について、生活保護基準部会の意見を聴かないまま引き下げを決定したことを問題視しました。
具体的には、「デフレ調整」や「ゆがみ調整の2分の1処理」が厚生労働省内部で決定され、その内容は社会保障審議会に共有されていませんでした。一方で、引き下げを求めていた自民党議員には具体的な引き下げ額が説明されていたことが、ジャーナリストによる情報公開請求などを通じて明らかになっています。
こうした事実が示す問題の本質は、行政が本来踏むべき手続きを省き、政治的な要請を優先していたのではないかという点にあります。だからこそこの判決は、生活保護制度だけでなく、行政の政策決定のあり方そのものを問う、普遍的な意義を持つものだと私は考えています。
なお、判決後の厚生労働省の対応については、慎重な検証が必要です。2026年4月時点においても、原告や利用者からは不安や不満の声が上がっており、判決および法律の趣旨から逸脱していると批判する法学者も存在します。現段階で評価を下すのではなく、今後の対応を注意深く見守っていく必要があるでしょう。
生活保護へのネガティブな感情は政策に反映されるべきか?
今回の判決で裁判所が重視したのは、「客観的なエビデンスに基づくこと」と、「専門家の意見を踏まえること」という、政策決定のプロセスにまつわる二つの原則でした。これらは生活保護制度に限らず、あらゆる政策に共通して求められるものです。そしてこの問題の背景には、「国民感情をどこまで政策決定に反映させるべきなのか」という、より大きな問いが潜んでいるように思います。
「プロセスの問題」と言うと、「行政が政治家の意向に従うのは当然ではないか」と考える人も多いかもしれません。しかし、適正な手続きが省略され、透明性が失われたとしたら、どのような事態が生じるでしょうか。
自分が支持する政治家が政権を担っている間は問題を感じないかもしれません。しかし、支持していない政治家が権力を握ったときにも同じ仕組みが使われるとすれば、政策はその時々の政治状況に大きく左右されてしまいます。
だからこそ、政策決定のプロセスが重要になります。透明で適正な手続きを重視することは、行政の安定性と継続性を確保することでもあるのです。私たちはしばしば「決断力のある強いリーダー」を求めがちですが、一方で、これまで積み重ねられてきた議論や専門的知見を踏まえながら政策を形成していくことも、民主主義社会において欠かせない要素です。
そもそも、今回の生活保護基準引き下げの発端は、2012年の衆議院議員総選挙にありました。当時、野党だった自民党は「生活保護費の10%引き下げ」を政権公約に掲げ、政権復帰後にその方針が実際の政策として進められていきました。
こうした政策が支持を集めた背景には、生活保護制度に対する国民の根強い不信感があります。とりわけ不正受給・不適正受給の問題は繰り返し注目されてきました。
たとえば2012年には、有名芸能人の母親が生活保護を利用していたことが大きく報道され、「家族が支援できるのに生活保護を受けているのは不公平だ」との批判が広がりました。こうした議論が、制度全体へのバッシングへとつながっていったのです。
近年では、生活保護を利用する外国人への批判も目立っています。「日本人の税金で外国人を支援するのはおかしい」という主張です。しかし実際には、生活保護の対象になるのは、在日韓国・朝鮮籍の方や外国人のうち子どもが日本人であるなど特別な事情のある方に限定されています。日本人の子どもがいる外国籍の方に対して、子どもを置いて国に帰れと言えるでしょうか。漠然としたイメージではなく、制度の運用実態を踏まえて議論をすることが必要です。
実際のところ、不正受給は2023年度で生活保護費総額の0.3%、保護世帯全体の1.4%にすぎません。しかしメディアでは例外的な事例が大きく取り上げられるため、制度全体に対する否定的なイメージが形成されやすくなっています。
生活保護は、全体としてみれば日本社会における最後のセーフティネットとして重要な役割を果たしています。それを支えているのは、現場の行政職員の努力と、大多数の真面目に慎ましく暮らしている利用者です。私は、現在の生活保護制度は決して悪い制度ではないと考えています。
十分とは言えない社会保障教育に、新しいアプローチを
私がもう一つ強く問題意識を持っているのが、社会保障について学校教育の中で十分に教えられていないという現状です。社会保障は義務教育の中でも扱われていますが、時間的にも内容的にも十分とは言えません。
たとえば、消費税収は社会保障の財源として位置づけられています。しかし、学生に「消費税を支払うことで、具体的にどのようなメリットがあるのか」と尋ねると、答えられないことが少なくありません。社会保障は私たちの暮らしを直接支える身近な制度であるにもかかわらず、その仕組みや意義を学ぶ機会が十分に確保されていないのです。
そのことが、「社会保障費は少ないほどよい」「自分たちばかり損をしている」といった見方の広がりにつながり、ひいては政治や行政への不信感を生み出しているのではないか――私はそのような仮説を持ち、現在研究を進めています。同時に、社会保障教育そのものをアップデートしていく必要があると考えています。
こうした問題意識から生まれた取り組みの一つが、NPO法人Social Change Agencyが開発し、私は監修として携わった「社会保障ゲーム」です。日本の社会保障制度を体験的に学ぶことができるカードゲームで、すでに中学校・高校の授業でも活用されています。
ゲームの流れはこうです。参加者はまず、さまざまな年齢・職業・家族構成を持つキャラクターを選びます。次に、「難病と診断され長期入院が必要になった」「出産後にうつ病を発症した」といった困難が書かれたカードを引き、その人物にどのような問題が生じるかを考えます。そして最後に、「高額療養費」や「生活保護」など実際の制度が記されたカードを使いながら、解決策を探っていきます。
このゲームで興味深いのは、参加者が制度の知識を得るにとどまらず、「こういう支援も必要ではないか」「ここは制度が足りないのではないか」と自ら考え始めることです。ゲームには、現在の制度では対応できない問題に対して、新しい制度を考えるプログラムも盛り込まれています。足りない制度を新たなカードとして提案する過程は、政策を構想する力や、主権者としての意識を育てることにもつながっています。

私自身はもともと、福祉職の公務員として現場で働いてきました。その後、研究者・教育者へと立場は変わりましたが、根底にはつねにソーシャルワーカーとしての視点があります。
ソーシャルワーカーの仕事は、困っている人の相談に乗ることだけではありません。どのような制度や政策があれば人々がより安心して暮らせるのかを考え、社会に提言し、その実現に向けて働きかけることも重要な役割です。公務員・研究者・教育者と立場は変わっても、私はずっとソーシャルワーカーであり続けているという意識を持っています。
年金・医療・少子高齢化に伴う財政負担など、社会保障はどうしても「負担」や「削減」の文脈で語られがちです。しかし日本には、多くの人々の暮らしを支える充実した制度が確かに存在しています。だからこそ私は、日本の社会保障が持つ価値や役割を、もっと前向きに発信していきたいと考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
