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2026.05.21

人はなぜ「借りたものは返さなければならない」と思い込んでいるのか?

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「返す必要はない」と打ち出すことで、モラルの呪縛から人々を解放していく

 人間関係が値段や数値に還元されていない時点での負債の扱われ方とはどういうものなのか。アフリカやアジアでの文化人類学的な研究に目を向けてみると、興味深い事例がたくさん出てきます。

 たとえばラオスにおけるコーヒーのフェアトレードに関する研究事例によると、コーヒーの仲買人は、見方次第では暴利をむさぼる中間搾取の権化のような存在で、実際、コーヒー農家に多額の前貸しを行っていますが、その利子がとんでもない額なのです。そこだけ見れば仲買人は完全な悪人のようですが、面白いのは彼らがしょっちゅう借金を踏み倒されていること。その際、追いかけて奪い返したり、保証人に取り立てたりはしません。無理強いするような仲買人はケチで信用ができないと社会からつまはじきにされ、コーヒーの買い付けができなくなってしまうからです。そのため仲買人は、借金が踏み倒されるのも、減額を強いられるのも、ある程度は許容せざるをえません。しかも、借金して逃げた人間が、数年後に戻ってきて再び金を貸してくれと言ってくることさえあるそうです。

 このような大らかなやり取りが可能になっているのは、彼らが見知らぬ相手に闇雲に貸し付けているわけではなく、日常的に顔を合わせる関係のなかで取引をしているからです。互いの生活事情がわかっているため、苦しいときには返済を待つこともできる。こうした人格的なつながりのなかで貸し借りが行われている限り、脱脈絡化とは真逆の関係が保たれ、「借りたものは必ず返さなければならない」というモラルによって人が追い詰められる事態は起こりにくくなります。

 ラオスのコーヒーも世界的な商品なので、完全にグローバル経済の末端に組み込まれていますが、人間関係や相互扶助までが完全に市場原理に置き換えられているわけではありません。人間を生かす形で経済を進めていこうという態度が常にあるのです。そっちにもう少し目を向けてみようというのが、私の持論です。

 ラオスのようなことは、実はさまざまな地域で見られます。アジアやアフリカなど、公的なセーフティネットが十分に整っていない地域では、それこそお金の形で持っておくより、人間関係にお金を使ったほうがよっぽど豊かだし効率的ですらあるからです。私がフィールドワークで滞在していたアフリカの村では、親以外の誰かからご飯をもらうなんて当たり前でしたし、そのときにお金を払うなんて言ったら逆に怒られました。こうした支え合いまでが完全に企業化・商業化されてしまうと、人々の生活を支えてきた基盤が失われかねません。

 グレーバーは、ベストセラーになった著書『負債論』のなかで、「借りたら返せ」という負債の呼びかけに対し、命を賭してまで「返す必要はない」とはっきりと打ち出すことによって、モラルの呪縛から人々を解放しようと試みています。なんの根拠もなく「返さなくてもいい」と言われれば、戸惑いや違和感を覚える人も少なくないでしょう。しかしその感覚と、期日までに決められた額の借金を返さなければいけないこととは、まったく別の話なのだと説得的に提示しているのが『負債論』なのです。

 大事なのは、見方を変えること。これまで見えなかったものに目を向けて、自分の当たり前を疑い、物事を再評価してみることが重要です。そもそもその問題をつくりだしているものは何なのか、その結果、見えなくなってしまっていることは何なのか、もう一度、問題を深く考え直したときにどういう可能性が見えてくるのか。問題解決の特効薬がすぐに見つかるわけではありません。しかし、負債やモラルを当然のものとして受け容れるのではなく、それを生み出している社会の仕組みや構造そのものを捉え直す視点の転換こそが、より公正な社会を考えるための出発点になるはずです。

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※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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