借りたものは返すべきだという“当たり前”はどこから生まれたのか
借りたものを返さなければいけないことを、グレーバーは「モラル」だと位置づけます。法律として明示されているわけでないのに、心の中に染み付いてしまっている。返せなければ生きている資格がないと、自ら命を絶つ人もいます。そこがモラルの怖いところです。外側からの強制ではなく内側から自分を縛り上げてしまう、モラルという、この暗黙のルールはどこから来るのでしょうか。
もともと何かをしてもらったらお返しをしなきゃいけないという規則自体は、人類にとって普遍的なものです。負債という言葉をたどっていくと、英語にしても日本語にしても、お金の問題ではなく恩や義務という単語にいきつきます。お返しのルールには道徳的なものが根底にあり、現代の我々でも贈り物の値段をわざわざ訊ねて同額の品を返すことに、浅ましさを感じる人は少なくないでしょう。
そもそも何かをしてもらった際には、完全に精算して関係を終えるのではなく、あえて少し多めか少なめに返すことで関係を続けていく、という考え方も広く見られます。負債は相手に被害を与えるものだけではなく、相手との関係を続けていく技術でもあるのです。
借りた分をきっちり返さなければならなくなった重要な転機は、貸し借りが貨幣によって数値化されるようになったことです。国家による課税や軍事制度の発達とともに、人間の労働や義務が貨幣で計量されるようになると、貸し借りは単なる生活の支え合いではなく、厳密に返済すべき義務へと変わっていきます。その結果、本来は生きるための仕組みだった貸し借りが、「死んでも返せ」という倫理へと転倒していったのです。
奴隷制度はその極端な形態のひとつです。戦争捕虜や借金を返せなくなった人たちが労働力として扱われた背景には、人間を数量として把握し、交換可能な存在として捉えるという発想があります。そして、奴隷として扱われる個人は、相互扶助や連帯といった人間関係から切断されていきます。あなたの大切な人が奴隷にされそうになったら、あなたは死に物狂いで抵抗するはずですが、奴隷制は、戦争や誘拐といった暴力的手段を通じて、そうした関係から人間を切り離してしまうのです。グレーバーは、この過程を「脱脈絡化」と呼んでいます。
とはいえ、人間をただ暴力だけで支配し続けることは困難です。人を従わせるには、その状況を本人が「仕方がない」と受け容れてしまうような考え方や物語を同時に植え付ける必要があります。たとえば、戦争で殺されそうなところ命を救ってもらえた恩があるから、自分を買ってくれた人のおかげで生き延びられたから、あるいは前世の悪行によって神に定められた運命だから、といった説明です。こうした「正当化の語り」によって、人は不平等な関係を内面から受け容れてしまいます。
「借りたものは死んでも返さなければならない」という負債のモラルも、まさにその延長線上にある考え方ではないでしょうか。こうした半ば神話のように当然視された倫理から、いかに人間を解放していくのか。それがグレーバーの追求した問いでした。解決策のヒントは、気づいていないだけで、身近なところに数多くあるのではないかと私も考えています。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。
