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2022.01.28

風景が変貌することの意味を考えてみよう

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地域の変遷から生まれた裏原宿

 小資本の若者たちが地域を活性化していった典型的な例のひとつは、裏原宿です。

 1980年代の原宿は、まだ、表参道にも路面店は多くなく、現在の裏原宿も閑静な住宅地と地元商店街からなる地区でした。

 それが、1990年代以降、表参道がショッピングストリート化するのと連動して、表通りには店舗を持てないお金のない若者たちが、家賃の安い裏通りにアパレルやセレクトショップを展開していったことが現在に繋がっています。

 その過程では、地元の商店や住民との交流もあったと思いますが、彼らの店舗の賑わいが地域の活性化に繋がっていったとしても、それが、どれだけ地元の還元に繋がっているのかは、正直、疑問です。

 そもそも、現在、表参道と言われる地域は、江戸時代は隠田村という農村でした。そこには隠田川が流れ、水車も多く、それを葛飾北斎が富嶽三十六景の中で描いていることでも知られています。

 1920年(大正9年)、この西側に明治神宮が造営され、隠田村の辺りが表参道となったわけです。その後、隠田川は蓋をされて暗渠となりましたが、いまでも、隠田橋と書かれたモニュメントなどを見ることができます。

 戦後、明治神宮の西側と南側がアメリカ軍に接収され、軍人とその家族のための広大な団地であるワシントンハイツになり、1964年にはオリンピックの選手村ともなりました。その後、この地域には先進的な感性を持った文化人や様々な分野のクリエイターなどが居を構えるようになります。

 現在、「東急プラザ表参道原宿」となっている場所も、1950年代にはアメリカ軍の関係者のためのアパートがあり、セントラル空調や給湯設備が備わっていました。

 それが「原宿セントラルアパート」という住宅と商店の複合施設になり、ここにも、若いクリエイターが多く入居しました。そのなかには、現在にも繋がるファッションブランドを興した人などもいます。

 彼らはマンションメーカーと呼ばれます。すなわち、マンションの一室で、お金はないが、自分の才能や能力を頼りにステップアップを目指して活動していたのです。

 こうした動きが、やがて表参道をファッションやショッピングストリートにしていく下地にあり、また、かつてのマンションメーカーのような活動が裏通りで行われ、やがて裏原宿へと繋がっていくのです。

 このように、地域の歴史や変遷を見ていくと、ときには国や大資本が入って街を一変させたり、その底辺から若者たちがステップアップしていくこともあり、それにともなって、また新たな文化やアイデンティティが形成され、それが資本主義の構造の中で地域を活性化させていく、という経過があることがわかります。

 つまり、新たな街や地域が形成されていく過程には様々な要因が絡み合い一様ではなく、それは、善し悪しの問題でもないということです。しかし、その過程で排除されたり、取り残されていく人々がいることも、また事実なのです。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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