普遍性を目指した西洋音楽もひとつの音楽文化
今日、私たちは、音楽と言えば、メロディーやハーモニー、五線紙に書かれた楽譜があり、長調は明るく、短調は暗い、ということが当たり前であると思っています。
でも、それらは西洋が長い時間をかけて体系化してきた西洋音楽のシステムであり、ひとつの文化でもあるのです。
例えば、西洋音楽が入ってくる前から、日本には、独自の音楽文化がありました。
しかし、明治以降、西洋音楽が音楽教育の中心となり、今日の私たちは、西洋音楽を音楽だと思っているのです。いわば、音楽においては外国語で話しているようなものなのです。
もちろん、西洋音楽は日本だけではなく、世界中に浸透しています。それは、西洋音楽が普遍性を目指してきたからであると思います。
平均律や和音にしても、長調、短調にしても、様々な試行錯誤の末にたどり着いたものです。その過程で、音はどのようにできているのかを物理的に分析するなど、音楽の仕組みを理論的に体系化してきたのです。だから、そこには、人がある程度自然に受け入れるような音の構成があるのかもしれません。
では、日本の音楽文化が劣っていたのかというと、決してそんなことはありません。むしろ、非常に豊かな音楽表現をもっていると言えます。要は、日本語と英語に優劣がつけられないのと同じです。
例えば、短調は誰にとっても暗い音かというと、西洋の文化圏外の人にとっては、そうではない場合もあります。
つまり、西洋音楽は物理的な分析を含めて理論を構築してきたことで、確かに、影響力の強い音楽文化になっていますが、それが普遍的かというと、決してそうではないのです。
だから、西洋音楽とは異なる音楽理論を構築しようという、リディアン・クロマティック・コンセプトという動きなども起こります。これは、ジャズ・ミュージシャンであったジョージ・ラッセルが1940年代に考案し、1950年代はじめに発表したものです。
ジャズはアメリカでアフロ・アメリカンの音楽文化と西洋音楽とが混じり合う中で発展してきました。理論的な面では、西洋音楽の理論に基づいています。しかし、ジョージ・ラッセルはこの理論とは異なるアフロ・アメリカンの感覚にフィットした新たな音楽理論を構築することを目指しました。
アフロ・アメリカンにとって、彼らの音楽は自分たちのアイデンティティであり、プライドでもあったと思われます。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。