「かわいい」は周りを侵食する
「かわいい」のもうひとつの特徴は、対象の内部にとどまらず、周りを侵食することです。例えば、女子高生がディズニーランドでキャラクターを見て、「かわいい」と叫んでいるとき、彼女たち自身も「かわいい」の影響下にあり、そのアトモスフェア(雰囲気)の一部になっているということです。萌え袖が、なぜ女子中高生たちに広まっているのかといえば、萌え袖を「かわいい」と言うときに、その意識は言っている人を侵食し、さらに周囲に及び、広がっていくからです。中高年の男性、いわゆるおじさんが、女子中高生が頻繁に「かわいい」と言うことに眉をひそめたり、違和感をもつのは、彼らが「かわいい」のアトモスフェアの一部になれない、あるいは一部になることが許されないからなのかもしれません。
実は、これも日本の伝統的な美意識なのです。例えば、「もののあわれ」と言うとき、「もの」が「あわれ」なのではなく、「あわれ」であるのは自分です。「わび」、「さび」と言うとき、それは、実は、自分の状態を言っているのです。つまり、「あわれ」も「わび」も「さび」も、目の前の「もの」や「こと」の性質だけではなく、「あわれ」と言うことによって、そのアトモスフェアに包まれているということです。それに対して、西洋の美意識の特徴といわれる、beautiful(美)、supreme(崇高)、grace(優美)は、そのものの性質を表わしています。バラを見て「beautiful」と言うとき、それはバラと向き合い、パラを対象として言っています。自分が「beautiful」になるわけではありません。ところが、与謝野晶子は歌集「みだれ髪」の中で、「清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよい遭ふ人 みなうつくしき」と歌っています。桜を見ていると、周りにいる人もみな、美しく見えてくるというのです。日本人にとって、桜の美しさは、対象としての美しさにとどまらないのです。哲学者の九鬼周造は、おそらく与謝野晶子の歌は知らなかったと思いますが、日本の桜の特徴は、その周りまですべて美しく見せることである、と同じことを指摘しています。
さらにいえば、日本の美意識は受け身であり、「あわれ」と言うとき、それは「あわれ」に自ら同化することではなく、「あわれ」を感じる心の状態によって、「あわれ」に侵食されるのです。ディズニーランドでかわいいキャラクターを見て「かわいい」と言う女子が、その「かわいい」に包まれてキャラクターのアイテムを身につけることも、その女子を見て、また「かわいい」と思う心の状態が周囲をどんどん侵食していくのも、やはり、日本の伝統的な美意識なのです。おそらく、アメリカのディズニーランドのお客さんがキャラクターの格好をするのは、楽しい世界に自ら同化すること、自ら参加しようとすることであり、それは日本の美意識とは異なるのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。