グローバル・サウスとしてのメキシコの起源
1821年にスペインから独立してわずか20数年後、メキシコは米墨戦争で自国の領土の半分以上を失います。以降、米国の大資本家による進出が本格化し、20世紀に入ると「北」の隣国に向けた資源・食糧供給基地となっていきました。
重要なのは、それと同時にスペイン統治下時代の「遺産」を背負い続けたことです。とくに地方・ローカルにおいては、大土地所有制や少数者による寡頭制支配が維持されました。
言い換えますと、農業主体の第一産業に依存する貧しい地域では小規模家族農家や小規模土地所有農家が多く存在し、その一方、少数の白人層が広大な農地を所有し、かつ、その白人層の一族が各地方の政治的リーダーになっているという構造です。
これらは、ほかの旧スペイン植民地のラテンアメリカ諸国にも見られる特徴であり、その意味でメキシコはグローバル・サウスとしてのアイデンティティを有しているといえます。
しかし、20世紀の後半になるとメキシコは「北」への急接近を強いられます。
もともと1940年代から60年代にかけて、戦争による米国の一時的なプレゼンス低下の間隙を縫うかたちで、メキシコは自国のナショナリズムを強め、国内産業(正確には外資企業も含んでいますが)を育成するための保護主義をとりました。
ですが、1970年代半ば以降になると、国際金融機関や「北」の民間銀行からの融資を受けながら国内産業の開発を推進するようになり、1980年代初頭、米国の高金利政策にともなう返済金利の上昇の影響もあって、ついにデフォルト(債務不履行)に陥るのです。
この累積債務危機の発生が契機となり、メキシコは返済の一部繰り延べのために条件付き融資を飲むことになりました。その「条件(コンディショナリティ)」こそが、関税撤廃や貿易自由化といった政策の大転換でした。これにより、メキシコ政府は対外的な保護主義政策をやめ、新自由主義政策を導入していきました。
そのピークが、米国との貿易と資本移動を自由化した北米自由貿易協定(NAFTA)でした。これは経済統合を通じた先進国への接近、すなわちグローバル・ノースへの接近の象徴であったといえます。
ところが、NAFTA発効日の1994年1月1日、メキシコ南部の最貧州であるチアパス州で、マヤ系先住民を中心としたサパティスタ民族解放軍(EZLN)が NAFTA 反対を標榜して武装蜂起しました。
暴力に訴える手段は非難されるべきことですが、EZLNの主張は「NAFTA によってこの国の貧困・経済格差はさらに加速してしまう」というものであり、これは国民の 60%が貧困層であるという同国の経済的な二極化と社会分裂を再認識させたのでした。
実際、貿易自由化で安価な米国産穀物が大量にメキシコに流入し、特に南部地域の小規模家族農家の経営は次第に立ち行かなくなりました。結果、農民を中心に大量の離農者・失業者が生まれて、今日の越境移民や麻薬経済の問題へとつながっていきます。
つまり、メキシコはNAFTA発効によってグローバル・ノースの世界――米国を中軸とした北米――と経済的に連結した一方で、先住民による抵抗運動を含めた社会状況は、皮肉にも自分たちの歴史的ルーツである植民地時代の「遺産」とグローバル・サウスとしての立ち位置――可視化された絶対的貧困という「南」の属性――を浮き彫りにしたのです。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。