
2023.03.23
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言語は、社会そのものです。その国の言語を研究すると、その国の社会が見えてきます。では、日本語によって見える日本社会とはどのようなものでしょう。それは、同じ漢字を使う中国と、どこが異なり、どこが同じなのでしょうか。
私が日本と中国の比較研究を始めたきっかけは、1987年に日本に留学して以来、日本の様々な社会制度や文化を学ぶことで日本社会の理解が深まったことと、中国から長時間離れたことで、中国的なものに対して距離を置いて見ることができるようになったことが大きいと思います。
そのうち、日本も中国も近代社会を成立させている大きな力が4つあることに気がつきました。すなわち、祖国感情、伝統文化、言語感情、最高権威です。これを社会凝集力と捉えました。そして、この中でも、日本と中国の言語感情に、共通する多くの点を見出せると気付いたのです。
まず、言語が社会凝集力、すなわち社会をまとめる力という点において非常に重要であるのは、言語は社会集団と密接に繋がっているからです。
例えば、私は中国の広東省の客家(はっか)出身です。客家は漢民族の一支流ですが、長安(いまの西安)あたりから広東省などに移住してきたので、客に家と書いて、客家と呼ばれるようになりました。
客家には客家語があり、それは現代中国の共通語になっている北京語とはまったく違うものです。私は地元で、ずっと客家語を話していましたが、北京に行き、客家語を話すと馬鹿にされました。北京語も正確には話せず、訛りがあると笑われました。
逆に、私は客家語が美しいと思い、北京語を喋っている人たちは気取っているように思えて、彼らの言葉には本心がないように感じていました。つまり、私は客家語によって客家の社会集団に属していて、北京語を話す社会集団には違和感をもっていたのです。
そんな私が日本に留学し、日本語にふれたとき、最初は漢字だけでなく、ひらがなやカタカナがあることに、やはり違和感をもちました。
それでも、一生懸命日本語を学び、読むことも書くこともできるようになってくると、漢字とひらがなやカタカナの組み合わせが、きれいでやわらかいと感じるようになったのです。
つまり、若い頃の私が北京語に感じた違和感も、最初に日本語に感じた違和感も、私の偏見だったのです。人は自分が信じているものが一番素晴らしく、美しく思い、それ以外のものを、自分のものより下と考え、差別するのです。それによって、人は優越感や自尊心を保ちます。これは、人の自然的な感覚といえます。
しかし、この感覚を巧みに利用すれば、同じ言語を喋る人たちをまとめ、ほかの言語の人たちとグループ分けをすることができるわけです。これが言語の社会凝集力です。
少し距離を置いて見てみましょう。客家語と北京語では、どちらが美しいということはありませんし、漢字だけの中国語と、漢字とひらがな、カタカナがある日本語では、どちらが美しいという優劣などないことはすぐにわかります。もし、一方だけを美しいと言うなら、それは他方を知らない自分の無知を表しているようなものなのです。