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持続可能な農業のヒントは内モンゴルにある
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2022年は日本だけでなく、世界的にインフレが進行しました。その大きな要因のひとつは、化石燃料の消費にともなう気候変動や、新型コロナウイルスの影響、ウクライナ戦争などにより、農作物の生産が打撃を受けたことであります。では、そうした環境や世界情勢の変化に備えられる有効な施策はあるのでしょうか。

内モンゴルで始まった、遊牧から半農半牧畜業への変化

暁 剛 私の研究テーマのひとつは内モンゴル自治区(以下、内モンゴル)の農業についてです。一見、日本とはあまり関係がないテーマのように思われますが、研究を続けていると、日本の農業にとって示唆が得られる点が多いことがわかります。

 そもそも、遊牧の民であったモンゴル人が、内モンゴルで農業をせざるをえなくなっていった事情があります。

 歴史を振り返ると、13世紀にモンゴル帝国は中国も版図におさめて元を興しますが、17世紀の清の時代になると、逆に、現在のモンゴル国を含めて清の支配下に置かれるようになります。この時代に、清の側から見て近い地域を内モンゴル、遠い地域を外モンゴルと呼ぶようになります。

 その後、19世紀の半ばになると、戦乱などによって貧窮化した漢人の農民が内モンゴル地域に逃げて来て定住するようになります。彼らは土地を開墾して農業を行うため、遊牧を行っていたモンゴル人と衝突します。

 しかし、内モンゴルの東部で漢人の人口が増えるに従って、モンゴル人は中部や外モンゴルに、半ば追いやられていきます。

暁 剛 こうした外圧によって、まず、東部に残ったモンゴル人は遊牧が難しくなり、漢人に倣って耕種農業を始めます。また、中部には遊牧をするモンゴル人が増えたため、その地域の遊牧面積が狭くなり、彼らも定住放牧を始めざるをえなくなっていきます。

 さらに、1932年に満州国がつくられ、内モンゴルの東部はその一部となります。そこにやって来た日本人が日本国内に輸出する目的で大豆などの品種改良を行い、生産量が伸びたこともあって、モンゴル人も耕種農業に力を入れるようになっていったのです。

 その後、外モンゴルはモンゴル人民共和国として独立し(1992年に国名を「モンゴル国」に変更)、内モンゴルは中国の自治区となります。

 実は、現在でも、モンゴル国では遊牧が中心です。一方、内モンゴルの東部では耕種農業が中心になりますが、ここで見落とせないのは、当該地域のモンゴル人も牧畜を決してやめたわけではないことです。放牧は難しくなりましたが、肉牛と羊を中心に舎飼いするようになったのです。

 すなわち、耕種農業と牧畜業を両輪とした「半農半牧畜業」です。これが、内モンゴル東部地域におけるモンゴル人の農業の大きな特徴となります。なお、草原地域は中部(シリンゴル)と、大興安嶺山脈の西側に広がる高原地帯(フルンボイルの一部)に限定されます。とくに「シリンゴル」は、天然牧草に頼る牧畜業が中心で、耕種農業の割合が低いです。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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