
2022.08.09
明治大学の教授陣が社会のあらゆるテーマと向き合う、大学独自の情報発信サイト
歴史に名を残す偉人から、カリスマ性のある著名人、その道を究めた学者まで。明治大学・教授陣に影響を与えた人物を通して、人生やビジネスに新たな視点をお届けします。
一人目に、幕末の名医として知られる緒方洪庵をあげたいと思います。
彼は西洋医学を学んだ大坂で医者として人々に尽くす一方、全国の医者・蘭学者を育てる教育者としての一面を持っていました。その舞台が蘭学の私塾「適塾」です。
西洋の学問や技術である蘭学を学ぶため全国から優秀な人たちが集まった適塾は、今でいう大学院のゼミのようなところ。洪庵は医者でしたが、門下生を「医学」に縛り付けることはありませんでした。
医学に限らず自由に学ばせる。それを許す寛大さを持っていたのです。自由度が高い分、いい加減な人やルールを守れない人は辞めさせる一面もあり、洪庵からは教育者としての厳しさと温かさを学びました。
また、コレラの治療手引書では以下のようなエピソードがあります。
当時、長崎に赴任していたオランダ軍医のポンペはコレラ対策に乗り出し、治療手引書を作成していました。大坂でコレラ治療にあたっていた洪庵は、この治療手引書を手にしましたが、ポンペの治療法では足りないと別の治療書をまとめました。
この治療書を見たポンペの弟子・松本良順は、ポンペを侮辱されたと抗議書を送付。洪庵は非礼を詫びましたが、自分が正しいと思う治療法については信念を曲げませんでした。
すべては助けを待つ人のためだったと思いますが、研究者としてのプライドもあったのではないでしょうか。学んだことを社会や人々に使うことが責務、という研究者としての真摯な生き方に感銘を受けました。
二人目に挙げたいのは、歴史学(日本史)研究をリードし続けた早稲田大学の名誉教授で、わたしの指導教授だった深谷克己先生です。
深谷ゼミでは議論もゼミ生たちに任せることが多かったです。指導教員の発言でゼミが完結するということはなく、先生は軌道修正するだけでした。手取り足取り教わったわけではありませんが、研究者はこうだと姿勢で見せてくださいました。
学会の発表前に論文のチェックをお願いすると、それはほどほどで、呑みに行くというスタイル。だいぶ経ってからその理由をうかがうと、踏み込みすぎて第2の深谷(エピゴーネン)ができてしまうことを避けるためだったようです。
先生からプレッシャーを与えられたことは一度もありません。いつも自由に取り組ませてくれただけでなく、先生が関わるプロジェクトにわたしを引っ張ってくださり、活躍する場を与えてくれました。
先生と専門領域(民衆史)は同じであるにもかからず、わたしは、まったく発想のことなる研究を続けていましたが、それを理解してくださっていました。わたしが書いた本をお送りすると、「君によって私は生かされている」というメールをいただき、思わず泣いてしまうほど嬉しかったですね。
深谷先生からは研究者としての姿勢をはじめ、今につながる様々な影響を受けました。学問とビジネスはもちろん違いますが、ビジネスシーンでも部下や後輩に活躍の場を与え、自由にやらせてみてはいかがでしょうか。自ら学び、スキルを磨くいい機会になるかもしれません。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。