Meiji.net

2026.07.02

「英語の古典を読む」ことのなかに、現代社会の“解像度”を高めるヒントがある

  • Share

三言語併存社会とジェフリー・チョーサー

 英語(アングロサクソンの言葉)、フランス語、そしてラテン語という三言語が長く併存した中世イングランド社会では、庶民の言語である英語に対して、フランス語が宮廷や貴族の言語としてその上位に置かれ、そのさらに上位に教会と学問の言語であるラテン語が位置づけられました。言語の序列は、そのまま社会的ヒエラルキーを反映しており、この階層を越えて自由に行き来することは、当時としては容易なことではありませんでした。

 そのなかで異彩をはなっているのが、『カンタベリ物語』の作者であるジェフリー・チョーサーです。チョーサーは、ロンドンから北東に約140キロの位置にあるイプスウィッチに数世代住んでいた裕福な商人の家系に生まれました。父親はロンドンでワイン商を営んでおり、その点では英語を基盤とする庶民の世界に属していたと言えますが、ワインの取引はフランスや貴族の館、さらには宮廷とも関わっていました。そうした環境のなかで、彼はフランス語やイタリア語に通じ、ラテン語も操ったと考えられています。

 複数の言語を自在に扱う能力は、当時の社会において大きな強みでした。実際、彼の文学作品には多様な階層の人物が登場し、それぞれの言葉遣いを通して当時の社会構造や価値観が生き生きと描き出されています。

『カンタベリ物語』は、巡礼の旅の途上で人々が物語を語り合うという「枠物語」の形式をとっています。この点では『千夜一夜物語』やボッカッチョの『デカメロン』にも構造的に通じます。さまざまな身分や職業の登場人物がそれぞれの立場から物語を語る構造は、いわば“中世英語版の語りの競演”とも言えるかもしれません。そこには、言語と階層が交差する社会の縮図が凝縮されているのです。

 また、私は英語史や『カンタベリ物語』研究と並行して、中世イングランドの年代記、とりわけ初期中英語期に書かれた『ロバート・オブ・グロスターの年代記』の典拠問題について研究しています。

 この作品は、イングランドの歴史を物語として叙述したもので、いわば歴史と文学の境界に位置するテクストです。どの史料をもとに記述しているのか、どの部分が改変されているのかを精査することで、作者の意図や当時の社会状況が浮かび上がってきます。

 言語は単なる記号体系ではありません。その背後には社会的・文化的・歴史的な文脈が広がっています。それらを共有しないままでは、たとえAIによって表面的な翻訳が成立しても、深いレベルでの理解は難しいでしょう。

 だからこそ、AI時代にあっても英語を学ぶ意義、そして古い英語を歴史的に研究する意味は確かに存在すると私は考えています。言語を通して社会の構造を見つめることは、過去を理解するだけでなく、現代を批評的に捉える視点を私たちに与えてくれます。

英語版はこちら

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

  • Share

あわせて読みたい