「声かけ=不審者」とされるコミュニティの脆弱性
断っておきますと、私はこうした「不審者情報」のすべてが的外れであると主張しているのではありません。むしろ、いかようにでもあり得る可能性のうち、「互いを潜在的不審者として疑ってかかる」という状況が、当然視されて意識されないまま単一に選択されてしまっている事実を指摘しているのです。
そこでは、一般的な個人は主観的判断に基づいて、「善意の通報者」という立場から「潜在的不審者」を通報しています。本物の「不審者」であるかどうかは二の次で、少しでも怪しければ(あるいは怪しくなくても)「予防」の名の下に通報し、一方では別の誰かが通報した真偽不明の「不審者」を恐れながら、それによって人々は「やはり治安は悪化している」との認識を強め、ますます相互監視を強化していきます。
これは机上の空論ではありません。実際に、2000年代に女子児童が誘拐・殺害された事件をきっかけに子どもへの声かけを制限する条例を定める自治体が登場し、2010年代には関西地方の新聞で、あるマンション内で「挨拶を禁止する」との決定が自治会にて行われたという読者投稿が話題になりました。
このような「声をかける=不審者である」という可能性を社会の拠り所とするコミュニティでは、たとえ公園で子どもが泣いていても「どうしたの?」と声をかけることすらためらわざるを得ないでしょう。「潜在的不審者」の「予防」を行ってきた結果、実際に困っている子どもの「手助け」ができない状況が発生しかねないのです。
私の考えでは、相互監視・相互不信の社会は、とりわけ巨大地震などの災害時にその脆弱性を露呈します。大規模な災害の発生時には、消防や救急といった公的サービスに限界が生じるため、どうしてもコミュニティで助け合うことが不可欠になります。私も1995年の阪神淡路大震災で被災しているので、そのことは身に染みて分かっています。
たとえばそのとき、子どもに声をかけられない集合住宅地や、挨拶が禁じられるようなマンションで、住民たちは助け合うことができるでしょうか。過剰に犯罪を「予防」しようとした結果、未曾有の災害への蓄えがない状況におかれてしまっているとは言えないでしょうか。
現代では意識する・しないにかかわらず、様々な監視技術が日常化しており、とくに若い世代のなかには、監視カメラや相互監視のコミュニティにさほど嫌悪感を持たない人や、技術の利便性や快適性を優先している人が少なくないかもしれません。
しかし、監視技術と共にある私たちの社会には、少なくとも安全や便利だけでなく、不安や不信、不自由な要素が潜んでおり、想定外の場面でリスクが表出する可能性があります。はたして、このような社会・組織・コミュニティは健全なのか。みなさんも考えてみてほしいと思います。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。