
2022.08.09
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江戸幕府の政治理念であった仁政と武威が揺らぐ要因はいくつかありますが、背景には、経済のボトムアップが進み、富が偏在し始めたことがあります。豊かな者はより豊かになれるようになったことで、従来は儒学などで抑えていた人の欲のたがが外れていったのです。
天保の飢饉(1833~1839年)が起こったとき、幕藩領主や金持ちの商人などは米を高く売って利益を得ることを考え、民衆を救うことを二の次にします。つまり、「私慾」に駆られ、仁政や共助社会のあり方を崩していくのです。
それは、仁政の上に成り立っていた民衆の江戸幕府に対する恩賴感を失わせることに繋がっていくことになります。
さらに、嘉永6年(1853年)、アメリカのペリーが浦賀に来航し、開港などを求めたことに対して、江戸幕府は、それまで夷狄と蔑んでいた外国人に対して弱腰にしか見えない対応をとります。これによって江戸幕府の武威も一気に崩れたのです。
江戸幕府を支えていた理念が崩れたことで、旧来の価値観や秩序も揺らぎ始めます。
例えば、農村に生まれた者は農民になるのが秩序であった社会体制下では、それを嫌ったり、長男ではないため土地を持つことができない若者たちの中には、農村から飛び出して博徒になったり、村の中で鼻つまみ扱いされる者もいました。
資産や特殊な能力をもたない普通の若者には、自己主張する手立てが暴力しかなかったからです。また一方、村に依拠しながらも、既存の秩序にしばられず、自己主張を行う者(多くは若者)も出てきました。彼等は「強か者」(したたかもの)などと呼ばれました。
ところが、仁政と武威が崩れ始めると、強か者たちの強い個性や暴力の力に民が目を向け始め、彼らを頼りにするような雰囲気が生まれるのです。
実際、彼らがリーダー的な存在となり、暴力に依る百姓一揆が起き始めます。それは、旧来の価値観や秩序の中ではなかった農民の行動と言えます。
さらに、尊王攘夷思想が暴力に大義名分を与える状況も生まれます。すると、尊王攘夷志士は流行のようになりますが、彼らの多くは、旧来の社会体制の中では夢や可能性など持てなかった下級武士や農村出身の普通の若者たちだったのです。
こうして、江戸時代の社会体制の根幹であった仁政と武威が崩れたことにより、幕末社会は混乱の状況を呈していきます。
居場所を見つけて社会の表舞台に出てきたのは暴力でしか自己表現できなかった若者たちだけではありませんでした。個性や能力が高い若者たちも、それをむざむざと埋もれさせなくなったことです。それを可能にしたのは学問という途です。
そうした若者たちの中から、幕末の日本を襲ったパンデミックから社会を救う者たちも現れるのです。