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非当事者としての研究が「わたし」を問い直すきっかけに
2025.10.08

研究の裏話非当事者としての研究が「わたし」を問い直すきっかけに

リレーコラム
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教授陣によるリレーコラム/研究の裏話【4】

研究を行う際に、「何」を研究対象として、「どのように」研究すべきかを悩む研究者は多くいると思いますが、私の場合はそれに加え「誰」がやるべき研究なのかを自問することが多かったです。

その問いに直面するきっかけとなったのは、セクシュアル・マイノリティの表象の歴史を学ぶために2018年にイギリスの大学院へ留学した時でした。

私が留学した大学院では、人種やジェンダーなど、特定のアイデンティティに基づく政治的な主張――いわゆるアイデンティティ・ポリティクスが活発に議論されていました。

「自分は同性愛者だから、異性愛規範を批判したい」「黒人である自分の視点から歴史を見直したい」といったように、自らのアイデンティティと研究テーマが密接に結びついている学生が多くいたのです。

そんななかで、アジア人留学生である私は、シスジェンダーで異性愛者と認識していることから「マジョリティ」であることを強く意識させられました。自分は当事者ではない領域をなぜ研究しようとしているのか? その問いが頭から離れなくなりました。

帰国後、私は日本映画における「おかまキャラ」の歴史的な表象を博士論文のテーマとしました。しかし、研究を進めるうちにまたもや葛藤が生じました。「果たしてこれは、シスジェンダーで異性愛を自認している自分が研究すべきことなのだろうか?」と。

そんな迷いを抱えるなかで、私はクィア理論に関する文献を読み込み、知人とも率直な対話を重ねていきました。その過程で、「おかまキャラ」という、かつての日本映画で同性愛者を揶揄するために用いられてきた表象を丁寧に読み解くことは、異性愛中心的な価値観がいかに社会に浸透しているかを問い直す有意義な作業だと捉えるようになったのです。

それはすなわち、マジョリティである私自身が、「マジョリティが楽しむために作られた作品」を深く内省しながら研究を試みるという実践でもありました。異性愛規範に基づく社会構造を批判する研究は決してマイノリティの領域なのではなく、自分自身もマジョリティとしてその構造に深く関与している以上、それを内省する責任があると考えるようになりました。

これは研究だけでなく、日々の暮らしにも通じる姿勢ではないでしょうか。たとえば、「男性」であることによって社会的に得ている利便や、「異性愛者」であるがゆえに選択肢として与えられている結婚制度など、普段マジョリティが意識しないで許されているさまざまな特権的状況が存在します。やはり、どんな場面でも、自分が「マジョリティとして見られる存在である」ことへの想像力を持ち続けることは大切なのだと思います。

研究を通して新しい知を発見するということは、同時に、自分自身の意識していなかった部分に光を当てることでもあります。私はこれからも自分の立場性に向き合いながら、社会の中で見落とされがちな視点を持ちたいと思っています。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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