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幕末のパンデミックを日本人はどう乗り越えたのか

須田 努 須田 努 明治大学 情報コミュニケーション学部 教授

パンデミックの中で台頭した新しい力

 世界では、大航海時代以降、ペストなどによるパンデミックが幾度となく起きています。しかし、日本は江戸時代に入って鎖国体制をとったため、パンデミックに巻き込まれることはありませんでした。

 ところが、開国後の安政5年(1858年)、長崎に寄港したアメリカ船の乗組員からコレラの感染が広がります。

 当時はまだコレラ菌が発見されておらず、当然、ワクチンも治療薬もありません。しかも西洋医学の知識が乏しい日本では、甚大な被害が起こることになります。

 しかし、その前年に、長崎の医学伝習所に派遣されたオランダ海軍の軍医ポンペは、コレラ感染が日本にもおよぶことを予測し、着任早々、コレラ対策の準備を始めます。

 そして、本当に感染が始まると、ポンペと、蘭学を真剣に学ぶ松本良順をはじめとする20代の若い弟子たちは、自分たちの生命の危険を顧みず治療に懸命になります。

 その結果、ポンペたちがたずさわったコレラ患者の死亡率は36.4%に抑えられました。これは、コレラ菌が発見され、治療法が確立する以前としては、世界的にも驚異的な成果と言われています。

 ポンペは長崎でのコレラ治療体験を治療手引き書としてまとめ、すぐに全国に配布します。これを大坂で手に取ったのが、蘭学者であり、医者であり、多くの有能な人材(若者)を輩出した適塾の教育者であった緒方洪庵です。

 彼も、大坂で広がり始めたコレラ対策に尽力していました。その経験から、ポンペの手引き書では不足があると、より細かい感染対策や治療法をまとめた「虎狼痢治準」(ころりちじゅん)を発行するのです。

 ところが、この「虎狼痢治準」を目にした良順は、師のポンペが侮辱されたと憤慨し、洪庵に抗議書を送るのです。

 のちに、奇しくも洪庵の後を継いで西洋医学所頭取となる良順も、このときは外国人医師の弟子である20代の若者です。一方の洪庵は40代で、蘭学界での名声も定着している学者です。

 江戸時代の社会の秩序で言えば、年下の良順が、格上の洪庵に物申すことなどあり得ないことですし、仮にあっても、洪庵は、いわば駆け出しの若造の戯言と聞き流し、相手にしなくても当然です。

 ところが、洪庵は「虎狼痢治準」を書き直し、その序文でポンペに対して無礼だったと詫びるのです。

 しかし、治療法については、自分が正しいと確信する内容はそのまま記しました。そこには、学者としての強い信念と良心があることが感じられます。

 良順たち若者の長崎での奮闘、また、蘭学という新しい学問に打ち込み、それを、適塾という教育の場をつくり、福沢諭吉をはじめとする若い人材の育成に活かしたり、大坂の町の人々の生活に活かそうとする洪庵。

 そして、その二人のやり取りを見ても、旧来の社会体制では生まれなかった新しい力、それは、自らの能力を社会という場で発揮しようとする動きが、この幕末に興ってきたことがわかります。

 それまでは、暴力という形でしか表現できなかった若者たちの思いが、学問などの世界にも広がっていったことを表しています。ただし、その途(チャンス)はごく狭いものでした。

 こうした視点から幕末の歴史を見ていくと、どんなに高邁な理念を持った社会も、人々の私慾という利己主義によって格差を助長し、理念を崩すこと。

 前例主義や保守主義がそこに生きるひとりひとりの夢や可能性を抹殺し、多様性のない硬直化した社会を形成すること。

 そして、新たな時代を開くのは、若者たちの無謀なほどの行動力であることを、あらためて思い知らされます。しかし、それはドラマに見るような華々しいものではありません。尊王攘夷運動といった暴力を選択した若者たちは、その暴力の渦中で死んでいったのです。

 150年前の社会のこうした課題や出来事が、現代に生きる私たちにとって、そのまま同じことであることも、また、思い知るのです。

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※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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