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メディア・リテラシーの有無が生死を分けることもある

明治大学 国際日本学部 准教授 酒井 信

WHOも誤ったマスクの評価

 政府や国際機関、マス・メディアが報道する公共性の高い情報は、それなりのファクト・チェックが行われていますが、それらの内容がすべて科学的な根拠に基づいたものであるとは限りません。

 例えば、今回の新型コロナ・ウイルスについては、WHO(世界保健機関)がマスク(非医療用マスク)の予防効果の評価を誤ったことは明らかでしょう。

 新型コロナ・ウイルスの感染者が急増していた2020年4月6日の時点でも、WHOは「Wearing a medical mask is one of the prevention measures that can limit the spread of certain respiratory viral diseases, including COVID-19. However, the use of a mask alone is insufficient to provide an adequate level of protection(医療用のマスクは、新型コロナ・ウイルスを含む特定の呼吸器のウイルス性疾患の拡散を制限し得る一つの予防手段だが、医療用マスクだけでは十分な防護効果を得ることはできない)」というガイドラインを示していました*1。

*1 World Health Organization (6 April, 2020): Advice on the use of masks in the context of COVID-19 Interim guidance

 このガイドラインを読むと、医療用マスクですら効果は限定的ですから、一般的なマスクを着用しても予防効果は不十分、という印象を受けてしまいます。このようなWHOのガイドラインは、世界中で政治家や官僚の新型コロナ・ウイルスへの対応に影響を与え、メディアの論調も大きく左右しました。世界中の多くの人々が「マスクは新型コロナ・ウイルスに効果はない」という話を、一度は耳にしたのではないでしょうか。

 ところが、世界中で感染が拡大する一方で、東アジア地域で感染者数が少ない状況を踏まえ、2020年6月5日、WHOは方針を転換し、新型コロナ・ウイルスの感染が広がっている場所でのマスクの着用を推進する記者発表を行ったのです。先のガイドラインの発表から2ヶ月後のことで、この間に多くの罹患者や死者が出ています。

 日本をはじめ東アジア地域では、花粉や黄砂、大気汚染から身を守るために公共の場でマスクを着用する習慣が以前からありました。このためWHOの「予防効果はない」というガイドラインを聞いても、多くの人々は新型コロナ・ウイルスの感染拡大にともなって、マスクを着用していたのです。

 もちろん非医療用マスクの効果には限度があると思います。ただ感染者が飛沫を拡散させるリスクを軽減したり、非感染者が手で口や鼻を触る頻度を下げることは確かでしょう。

 欧米諸国で一般的な価値観に照らし合わせると、公共の場でマスクをつけることは、自分が重病人であることを示すことを意味します。このような慣習上の理由と、WHOのガイドラインの影響もあり、東アジアの国々とは対照的に、欧米の国々ではマスクの着用は進みませんでした。新型コロナ・ウイルスについて、アメリカの大統領が「インフルエンザのようなものだ」と述べたり、ベラルーシの大統領が「ウォッカを飲めば大丈夫」と述べるなど、放言がメディアを賑わせています。

 しかし欧米のニュース映像を見ていると、4月ごろから次第に欧米の映像でも、警察官がマスクをするようになり、スーパーの列に並ぶ人々がマスクを着用するようになり、多くの人々がマスクを付けるようになります。個々人の自由を重んじるアメリカでも、公共の場所やスーパーマーケットなどの商業施設で、マスクが必要か否かで、世論が分かれ、政治的な立場に分断が生じました。

 このようにWHOのガイドラインとは無関係に、欧米でも多くの人々が自己の判断で、公共の場でマスクを着用するようになるのです。パンデミックという異常事態においては、従来の常識や価値観にこだわることが生死を分けることがあります。WHOやメディアが配信する情報を鵜呑みにするのではなく、自分の経験や知識を基にして情報を読み解く能力も必要なのです。ジャーナリズムの原則も「人々の情報の自治に寄与すること」にあります。

 2020年の3月に私は西日本新聞の連載(「現代ブンガク風土記」)で、篠田節子の『夏の災厄』という作品を取り上げています。この小説は日本脳炎に類似した新型ウイルスをめぐる行政の対応について、市役所の職員の視点から丹念に描いた先駆的な「パンデミック小説」です。

 私の場合は、東日本大震災の発生直後には、1993年の奥尻島地震を描いた桜庭一樹の直木賞受賞作『私の男』を思い出し、大地震後の津波の恐ろしさを想像するのですが、文学的な想像力が有事の判断やメディア・リテラシーに寄与することもあります。

 例えば2020年3月に、日本政府が新型コロナ・ウイルスに関する情報の読み解きを誤り、感染拡大を招いたことが、ゲノム解析で実証されています。

 国立感染症研究所の「新型コロナ・ウイルスSARS-CoV-2のゲノム分子疫学調査」(2020年4月27日)によると、日本では中国からの初期の感染クラスターの抑え込みには成功しています。しかし3月中旬までにEU各国や米国からの帰国者経由で「第2波」の流入を許し、3月下旬から4月上旬の感染拡大を招いたのです。

 多くの国々に渡航や入国の規制がかかる3月の下旬まで、日本政府は中国から来た人々や中国から帰国した人々には厳しい眼差しを向けていましたが、欧米から来た人々や帰国した人々には、PCR検査等のチェックが甘かったと言えます。

 3月の時点で海外メディアの報道に目を通していれば、COVID-19が中国のみで感染が拡大しているものではなく、欧米を含めた世界で感染が拡大しているものだったことは明らかでした。国際情勢への先入観が危機対応を誤らせる典型的な例で、2月に日本でも大きく報道された「ダイアモンド・プリンセス号問題」の「その後」を、国際的な視点で分析する姿勢が欠けていたのだと思います。

 ゲノム分子解析の結果が示しているように、日本に住む多くの人々が抱いた、「欧米の国々の防疫体制はしっかりしているだろう」という思い込みが、3月下旬から4月上旬の日本での感染拡大を招き、多くの死者を出したのです。

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