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2020.04.01

歴史を紐解くと見えてくる、台湾の親日の複雑な思い

歴史を紐解くと見えてくる、台湾の親日の複雑な思い
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>>英語版はこちら(English) 台湾は世界で最も親日的な国だと言われます。そのためか、日本からの観光客が非常に多い国です。でも、日本が統治した歴史があるのに、なぜ親日的なのでしょうか。台湾の観光に関する情報は溢れているのに、それ以外の情報が少なく、日本人は台湾に対する理解が不足していると言います。

台湾の先住民はオーストロネシア語族

林 ひふみ 1月11日に、台湾の総統選挙があり、民進党の蔡英文が再選されたことは、日本でも大きく報道されました。それは、中台統一を目指す中国に対する、台湾の人たちの明確な拒否の表れであったからです。

 でも、日本では、その背景や意義についてあまり知られていないように感じられます。

 もう少し理解を深めることで、日本にとって最も身近な国のひとつである台湾の魅力が、もっとわかってくるのではないかと思います。

 江戸時代までは、日本は台湾を高砂国と呼んでいました。

 その関係は古くからあり、織田信長の革の陣羽織は高砂国から送られた革だったとか、豊臣秀吉が高砂国に手紙を送ったという記録もあります。また、三代将軍徳川家光のときには、島民が江戸まで来て拝謁しています。

 日本の出島にやって来るオランダ人たちも台湾に立ち寄っていました。

 その頃の台湾の住民は、オーストロネシア語族と呼ばれる言語を話す人たちです。

 西は、アフリカ大陸の南東にあるマダガスカル島、東は、南米のチリ領のイースター島、南はニュージーランド、そして北が台湾に及ぶ広大な地域に分布する語族です。

 彼らが台湾の先住民で、17世紀はじめまでは中国系の住民はほとんどいませんでした。

 つまり、この頃の台湾は海洋文化圏の島だったわけです。いまの台湾にも感じられる南洋的な明るさは、ここにルーツがあると思います。

 17世紀以降、中国から入植した人たちが増え、多数派となっていきましたが、先住民と中国系の人たちは言葉も通じず、融合は進みませんでした。

 ところが、1874年(明治7年)、日本の台湾出兵により危機意識が生まれ、防備のために台北城を造ったりします。

 しかし、その後の日清戦争で敗れた清は、1895年(明治28年)の下関条約で台湾を日本に割譲します。台湾の人たちにとっては、清に見捨てられたという思いだったでしょう。

 ここで、台湾の人たちは初めて台湾民主国を宣言し、上陸してきた日本軍に対して激しく抵抗しました。

 これが乙未戦争と言われるもので、半年間ほども続き、その間に住民15000人が亡くなったと言われます。

 しかし、10年、20年たつうちには、台湾の人たちの間に、日本の枠組みの中で自分たちの地位を上げようという気持ちが徐々に広がります。

 当時、アジアで唯一近代化に成功した日本の文化や技術がもたらされたこともあったからでしょう。台湾の街にも日本の大正デモクラシーの雰囲気が漂い、コーヒーショップやダンスホールがつくられたり、レコード会社ができたりしています。

 一方で、日本語教育が浸透し、同化政策が進められました。

 ところが、その後、日本は日中戦争、太平洋戦争と突き進み、1945年(昭和20年)、ついに敗戦を迎えます。

 ポツダム宣言により、日本人は台湾から全員引き揚げることが決まりました。

 半世紀に及んだ日本の統治が終わり、台湾には、日本語で読み書きをする中国系と先住民の人たちが残されたのです。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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