明治大学の教授陣が社会のあらゆるテーマと向き合う、大学独自の情報発信サイト

小説は、文脈を捕捉する力を培い、コミュニケーションの素地を作る

生方 智子 生方 智子 明治大学 文学部 准教授

小説は、文脈を捕捉する力を培い、コミュニケーションの素地を作る

近代文学の写実に表現された個性

 明治維新とともに、文学の世界でも近代自然科学の影響を受けて、明治30年代頃からリアリズムを目指した方向が大きな潮流になってくる。正岡子規を中心に、雑誌「ホトトギス」では言葉でスケッチをするという「写生」の方法が探究され、夏目漱石も『吾輩は猫である』を発表している(1905年)。また、島崎藤村の『破戒』(1906年)や田山花袋(1907年)の『蒲団』など、写実的な描写を前面にした自然主義文学運動の勃興をみる。
 この運動は、ヨーロッパの自然主義文学の影響を受け、当初は人間の行動を、科学的、客観的に描写しようとするところに力点が置かれたが、実際の作品では自然科学が規範とする普遍性とは相反して個人的な身体感覚に基づく体験を語る実践となった。また、「見たままの再現」を目指していた「写生」の実践でも、独自の視点によって捉えられた世界が描かれていく。
 カメラで写したように正確に描写する、というのがリアリズム文学の目指す表現であったのだが、機械ではない人間が見て感じて書く以上、書き手の状況が反映されることは避けられない。むしろ、どこまでも客観的であろうとしながら、作家が置かれた困難な状況や不安定な精神状態がどのような形で作品に反映したかが個性として沸き立ってくるのである。
 大正期以降、個人的な身体感覚を文学世界に表現する試みは自然主義文学を超えて広がっていく。志賀直哉らの白樺派、谷崎潤一郎や佐藤春夫、芥川龍之介たちは、彼らの文学世界において「不安」や「憂鬱」といった気分や、「神経衰弱」あるいは「狂気」という状態の再現を試みていくのである。

村上春樹が描く心象風景との通底

 世界的に多くの人に読まれている村上春樹の『ノルウェイの森』に先立って書かれた『螢』(注1)という短編がある。『螢』は、14、5年前に語り手の「僕」が体験した親友の自殺を回想する形で物語が進行していく。「僕」と「彼女」の恋愛に「彼」が加わってくるという構造は、『ノルウェイの森』でも反復されている。文学史を参照してみると、村上春樹が描く三角関係の物語は、漱石の『こころ』などにも描かれているものなのだが、『ノルウェイの森』では、1970年代の政治の季節、その後のウーマンリブやフェミニズムといった社会背景が巧みに織り込まれ、より複雑な構造に変換され、「僕」を主人公とする物語は「彼女」の物語へ、つまり、女性を主人公とする物語へと変容していく。欲望、ジェンダー、セクシュアリティ、記憶といったテーマは、村上春樹の文学において大きな比重をもっている。それらのモチーフは、すでに先行する短編の中で提出されており、さらには過去の近代文学の作品にも重なり合っている。それらは、繰り返し語られることで変形しながら、新たな長編として再構築されているのである。

少女漫画のドラマツルギー

 個人的な身体感覚と内的世界を再現してきた近代文学の試みは、現代文学においてのみならず、現代文化、とりわけサブカルチャーの領域にも大きな影響を与えている。萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子といった戦後まもなく生誕した女性漫画家たちは、1970年代に隆盛する少女漫画というジャンルを築き上げた書き手であり、彼女たちが物語世界に描き出した心象風景はジャンルの枠を超えて注目された。少女漫画の登場人物は揺れ動くジェンダーとセクシュアリティを備えた身体を持ち、その固有の身体領域に派生する心理や心象風景は、図像とナレーションの組み合わせによってメインストーリーの展開とは別の流れを生み出しながら再現されていく。このような表現技法は、近代文学において探究された個人の内的世界の再現をめぐる実践の、さらなる展開として位置付けられる。それは、女性の身体と内面世界の表現を目指す試みなのである。

普遍性を求めても個人の特異な感性から逃れられない

 社会は個人的な生の集合によって作り上げられているからこそ、個々人が生きる体験の特異性を語る言葉は、常識が覆い尽くしている社会を変革する力になる。
 小説を読んで、そこに表出する作者の個性を論じることは、感性を論理的思考によって捕捉する力を育み、他者とのコミュニケーションの素地を作る。文学を通して「今を生きる自分」の感覚をクリアに言語化し、また、他者の生の体験に耳を傾けるとき、さまざまな他者に囲まれた自分の世界が見えてくる。

(注1) 『蛍』は1983年『中央公論』1月号、『ノルウェイの森』は1987年9月刊。

掲載内容は2013年7月時点の情報です。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

特集の関連記事

朝日新聞2020年6月 掲載

2020.6.29

朝日新聞2020年6月 掲載

  • Meiji.net編集部
朝日新聞2019年5月 掲載

2020.6.29

朝日新聞2019年5月 掲載

  • Meiji.net編集部
日本経済新聞2020年3月 掲載

2020.4.15

日本経済新聞2020年3月 掲載

  • Meiji.net編集部

新着記事

2021.10.14

時空を超えた他者と対話しよう

2021.10.13

コロナ禍をきっかけに見えてきた「ひとり空間」の新たなかたち

2021.10.07

フランクな交流を通して、人生の視野を広げよう

2021.10.06

世界では、インターネットを快適にするための規制が始まっている

2021.09.30

新しいことに挑戦し、自分のスタイルを確立しよう

人気記事ランキング

1

2021.10.06

世界では、インターネットを快適にするための規制が始まっている

2

2021.10.13

コロナ禍をきっかけに見えてきた「ひとり空間」の新たなかたち

3

2020.04.01

歴史を紐解くと見えてくる、台湾の親日の複雑な思い

4

2017.10.04

精神鑑定は犯人救済のために行うのではない

5

2018.01.26

#3 日本国憲法は「押しつけられた憲法」か?

リレーコラム