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「人生にはいくつもの初心がある」 ~世阿弥の言う本当の意味とは~

  • 明治大学長 法学部 教授
  • 土屋 恵一郎

能は、現代に継承されている演劇としては世界最古の歴史があるといわれ、世界無形遺産にも指定されています。日本文化を世界に発信するクールジャパン戦略においても、重要な日本文化のひとつとして位置づけられています。最近では、室町時代に能を大成させた世阿弥が著した「風姿花伝」などの芸能の理論書は、その枠を越え、現代の私たちの生き方にも通じる示唆に富んだ人生論にあふれる書物であると、評価されています。

相手との関係の中から生まれた世阿弥のイノベーション

土屋 恵一郎 今日私たちが観ている形に能を大成させたのは、室町時代、当時は猿楽師といわれていた世阿弥です。彼の成した業績をみると、現代でいうまさにイノベーションであることがわかります。イノベーションを理論化したのは、20世紀を代表する思想家であり現代経営学の発明者といわれるピーター・F・ドラッカーです。彼は、イノベーションとは単なる技術革新ではなく、物事の新しい切り口や活用法を創造することだと言いました。そして、そのためには、いま現にあるものを組合わせ、新しい結合を生み出すことが重要だと語っています。実は、世阿弥が生きた時代も、歌、舞、物語の三つの要素を含んだ芸能である能には、猿楽能や田楽能など、様々なスタイルがありました。世阿弥は、これら既存の芸能を組合わせることで、今日の能の原型といえるスタイルを新たに創り上げたのです。

 もちろん、あるものをただ組合わせるだけでは新しいものはできあがりません。世阿弥は、自分たちが創造した芸を子孫に伝えるために、秘伝書を何冊も遺しています。その中の一冊に「風姿花伝」があります。この秘伝書を読み解くキーワードとして、「関係的」という言葉が挙げられると私は考えています。世阿弥は、社会からようやく認められはじめた能が生き残り、発展していくためには、ただ自分たちがやりたいことをやるのではなく、観客との関係の中で、相手に寄り添いながら、いま求められているものは何なのかを常に見極め、それを取り入れていくことが重要であると考えていたからです。例えば、能の物語として、当時の誰もが知っていた平家物語や源氏物語を利用し、シテと呼ばれる主人公は能面を付けてキャラクターをわかりやすく、かつ美しく見せます。また、優雅な舞である天女舞が、世間で人気があると知れば、そうした舞を物語の中に組み込んでいく。つまり、なにを組合わせるかといえば、人々が良いと言っていたり、美しいと思ったり、面白いと思っているもの、それらをしっかりと見極め、組合わせることで観客にサプライズとなる新しい能を見せ、感動させていったわけです。それが「珍しきが花」ということです。

 さらに世阿弥は、能のパトロンとなった武士たちが居る都ばかりでなく、田舎も大切だと言っています。理解者を幅広くもつことで、ひとつがダメになっても、別の方を頼ることができるわけです。これは、世阿弥の生き残り戦略の一環といえるでしょう。実際に世阿弥たちは駿河などにも巡業に行っています。しかし、都の貴族化した武士たちの前で行う能と、田舎で庶民の前で演じる能は異なるものであると言っています。それは、どちらが良い悪いという問題ではなく、その場所や観客との関係を見極めて、相手に受入れられる芸を行うことが重要であるということです。また、宴席などで能を行うとき、客たちがすでにお酒を呑んでいる場合は、その雰囲気に合わせた舞を行わなくてはいけないと言っています。つまり、今日でいうところの「空気を読む」ということです。物事を成すとき、ただゴリ押ししていては相手に受け入れられず、結局なにも成し得ません。相手をよく観察し、状況を正確に把握することによって、自分を臨機応変に変えていくことができる。そうすることで、その場に新しい空気をつくることができ、初めて自分のやりたいこともできるようになるというわけです。世阿弥はこうしたことを「住せざるをもって花となす」と言っています。都で受けた能だからといって、そのまま田舎でやれば良いというものではありません。ひとつに安住することなく常に相手を見極めて柔軟に対応することが、結果として、自分のやりたいことにつながっていくというわけです。

 世阿弥の起こしたイノベーションとは、新しい結合を創り出すことも、柔軟に対応することも、常に相手があってのこと。相手との関係性の中で見出してきたことなのです。その成果は600年以上もの時を超え、能を伝統文化として生き残らせることにつながっています。こうした世阿弥のイノベーションの手法は、まさに現代の組織やビジネスの中でも活かせるワザではないでしょうか。

「初心」とは、壁を乗り越えるための自分なりの工夫と努力

 世阿弥の遺した言葉は、現代に生きる私たちにもたくさんのヒントを与えてくれますが、違った形で理解されてしまったものもあります。「初心忘るべからず」は、今日では、学び初めの志を忘れるな、という意味で理解されていますが、世阿弥は、初心はひとつではなく、人生の中にはいくつもの初心があると言っています。「花鏡」では、若いときの初心、人生のときどきの初心、老後の初心、について語っています。若いときの初心については、次のように言っています。20歳くらいの新人のときは周りからチヤホヤされるが、それは「時分の花」、つまり一時的な花にすぎないと。そこで得意になってしまっては、成長は止まってしまう。24~5歳くらいのときにあらためて自分の未熟さに気づくことが大切であり、先輩の話を聞いたりして、自分を磨き上げていかなければいけないと言っています。さらに中年になってくると、周りから飽きられたり、成長が止まってしまうことで力が落ちてきます。そのときどきの壁をどう乗り越えていくのか、その工夫が、人生のときどきの初心であると言っています。そして、老後の初心とは、自分の肉体や美しさが衰えていく中で、それをどう乗り越えていくかということです。実は、世阿弥は、父である観阿弥が死ぬ直前まで演じていた舞が「巌に花の咲かんが如し」であったと言っています。それは、満開の花が咲き誇っているような派手な様子ではなく、岩に一輪の花が咲いているようであると。しかし、その花の美しさこそ、老いて後の初心の結実であり、理想の芸であると言うのです。年を取るということは、肉体の衰えであり、美しさの衰えであり、間違いなくなにかを失っていくということです。若いときのように動けないし、美しくないし、輝きもない。しかし、失っていくことを知り、それを補う工夫を尽すことによって、その失うプロセスは、完成に向かうプロセスに変化していくということです。オペラにしろバレエにしろ、ヨーロッパの舞台芸術がいわば青春の芸術であるのに対して、能や歌舞伎、あるいは落語も、日本の伝統芸能は年を取ることで完成に近づいていく。つまり、一生をかけて完成するものと考えられています。こうした概念を初めて言葉にしたのが、世阿弥です。その意味で、老いた後にも初心がある、という世阿弥の言葉は、高齢化社会を迎えている現代の私たちに対して、若いときにあった様々なものを失っても、同時にそこで自分なりの工夫をすることで、むしろ人として完成に近づいていくことができる、というエールとして受け取ることができるのです。

自分の体験から実感した、現代に通じる世阿弥の言葉

土屋 恵一郎 能そのものは脈々と受け継がれ、いまや日本の伝統芸能となっています。しかし、「風姿花伝」をはじめとした世阿弥の著書は秘伝であったこともあり、読み継がれてきたわけではありません。世阿弥の著書が広く知られるようになったのは明治期以後です。そして、現代の私たちの生活に通じる言葉として解釈されるようになったのは、私の研究がきっかけになっていると思います。なぜ、私にそれが可能だったかといえば、私自身が能のプロデューサーだったからです。1980年に「橋の会」という能楽の会をつくり、能を広めるために、カフェや美術館、ギャラリー、東京駅構内などで能の公演をしてきました。その手法は、まさに世阿弥が町中や河原、寺社の仮設の舞台や、地方巡業を重ねて新たなファンを開拓していったことと同じです。世阿弥の言葉が現代に通じるというのは、私の体験に基づく実感なのです。

 最近では、私の著書が企業経営者を対象とした講演会などで紹介されていると聞きますが、皆さんもぜひ、世阿弥の本を読んでみてください。示唆に富んだたくさんの珠玉の言葉に出会えるはずです。そして、能を鑑賞してみてください。そこには、観る人一人ひとりに感動と、新たな発見があることと思います。

※M's Opinionの記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

プロフィール

土屋 恵一郎

明治大学長 法学部 教授

研究テーマ
ベンサム,J.Sミルを中心とするイギリス思想史
【キーワード】功利主義、正義論、思想史
主な著書・論文
  • 『正義論/自由論』(岩波現代文庫)
  • 『ベンサムという男』(青士社、「怪物ベンサム」改題して講談社学術文庫より刊行)
  • 『風姿花伝』NHK100分de名著ブックス(NHK出版)
  • 『世阿弥の言葉』(岩波現代文庫) 他

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