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2018.08.29

「道徳科」導入の現在、その是非を超えて

「道徳科」導入の現在、その是非を超えて
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2018年の4月から小学校で「道徳」が教科化され、2019年には中学校でも始まります。背景には、依然としてなくならない、いじめ問題への対応などがありますが、道徳教育に対しては、期待されるところがある一方、懸念されるところも多くあるといいます。

特別の教科「道徳」の導入は、さまざまな価値の相克を考える契機となる

関根 宏朗 2018年の4月より小学校で「道徳」が教科化されましたが、これに先がけてすでに2015年の『学習指導要領』の一部改訂で、文部科学省から道徳科の「目標」が公示されています。そこには、「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を広い視野から多面的、多角的に考え」るとの文言が謳われています。とくにここで注目されるのが「道徳的諸価値」という表現です。かつて文部科学省は「道徳的価値」という言葉を用いておりましたが、「諸」の一文字が付け加えられたこの新たに示された表現には、見た目の変化以上に大きな意味が込められていると思われます。すなわち、単一の価値を子どもたちに教条主義的に注入するのではなく、むしろ複数の価値にふれるとともに自律的かつ対話的な姿勢を練磨する場として、この「道徳科」を位置づけようという視点がそこにはたしかに伏在しています。背景の一つには、OECDが2003年に提出した新しい時代に求められる能力観の国際指標、いわゆる「キー・コンピテンシー」のうちに、「異質な集団で交流する力」が数えられたことの影響が見受けられます。そしてもう一つ、歴史的な事情もあります。思えば戦後の日本社会には、帝国憲法下の「修身」の教育がまさに画一的な価値を注入し軍国少年・少女たちの育成に加担してしまったという事実への痛切な反省から、そもそも道徳教育一般に力を入れることに対してアレルギー的な忌避感を感じる向きさえありました。今般の教科化に際しても、同様の見地により多くの有識者や現場の教員たちから批判的な意見が投げかけられました。ここでの道徳教育における複数的な力点の強調は、そうしたさまざまな批判に鍛えられながら文科省内外で議論が周到に重ねられた結果であると、ある意味で前向きにとらえることもできるでしょう。

ところで、「正義」と「善」という二つの言葉、その学術的に意味するところの違いについてご存知でしょうか。この前者、「正義(justice)」という概念は、より厳密に言うならば公正ないし公平の意を含み持つものでありまして、その過程はどうであれ求めるところとしてこれは絶対的なものであると見なされます。つまり、いつでもどこでも正義は求められるべきであり、不正は避けられるべきものです。しかしこれに対して「善(good)」にはさまざまなかたちがありえます。企業に勤めて一生懸命仕事をして、家族が安心して楽しく暮らせるように稼ぐのが善い生き方だという人もいれば、組織に拘束されずに自分のやりたい仕事を追求したり、自然とともにスローライフを送るのが我が善き人生だと考える人もいるでしょう。この両者はそれぞれの人生観を相容れることはできないでしょうが、しかし、どちらも認められなければならない生き方です。つまり「善」にはその本性として複数的、相対的な価値がともなわれており、唯一絶対的な「善」など存在しないのです。小学校、中学校の道徳科の授業が、こうしたさまざまな他者の価値観や多様な「善さ」の可能性にふれまた認め合う場として位置づけられるとするならば、グローバル化が進みますますダイバーシティが尊重されている現代社会において、それはとても意味のある構えの育成につながりうるかもしれません。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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