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司法の本質と民主主義は相容れない部分がある

手塚 明 また、裁判員が量刑も判断することについても、検討が必要だと考えます。例えば、死刑の判断は、よく指摘されるように、刑事裁判の専門家である裁判官でも辛いものです。これを一般の市民に判断させることは妥当でしょうか。まして、日本の法定刑にはものすごく幅があります。殺人罪の場合でも、死刑から無期懲役、20年の懲役、5年の懲役まであります。どの量刑が適当なのか、市民が判断するのは大変難しいことでしょう。実は、刑事裁判の専門家である裁判官、検察官、弁護士の間には、先例法的な量刑相場や、検察官の求刑の7掛けや8掛けが量刑の相場という“常識”があります。また、量刑検索システムを使い、裁判員の人たちには、類似の事件から量刑を評議してもらうということも行われています。たしかに、こうした先例法的な量刑相場の常識こそ、市民感覚を反映して改革していくべき点なのかもしれません。ところが、類似事件でも量刑が異なるようなことになると、今度は被告人が納得しづらいという面が出てきます。まして、一般の市民にとっては被告人よりも被害者に感情移入しやすいケースも少なくなく、従来の裁判官裁判よりも量刑が重くなることもあります。果たして、本当にそれで良いのかという議論は必要です。

 裁判員制度を創設する際には、十分に議論されなかったとも思えるのですが、司法の最も大事な役目は、少数者の権利を守ることにあります。すべてが多数決で決り、少数者の意見や存在が置き去りにされていくのは、健全な社会とはいえません。だからこそ、裁判官は身分保障されており、被告人の権利を守る立場でもあるのです。すると、司法に国民の意見を反映させるという制度は、実は、矛盾をはらんでいることがわかります。国民の意見というのは、多数決の論理だからです。極端にいえば、評議の多数決で、反対者がいても賛成者が多ければ、死刑判決が出ることになります。死刑は極端な例だとしても、多数決で決れば、それが正義だという仕組みは、果たして司法の場で受け入れられるものでしょうか。アメリカは陪審制を取り入れています。基本的に、陪審員は量刑は判断せず、有罪か無罪かだけを判断します。それも、全員一致でなければ有罪にはなりません。刑事裁判には、「疑わしきは被告人の利益に」というルールがあります。従来の裁判官裁判では、一般の市民感覚からすると、法定刑の中でも軽い量刑の判決が多かった理由は、こうした司法の役目や考え方があったからともいえます。もちろん、だからといって、司法が国民から乖離したものになってはいけません。もともと、司法と民主主義は、実はある意味、相容れない部分があることを理解し、そのうえで議論を深めることが必要なのです。

※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。

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