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境界線(ボーダー)の向こうから来る精霊たち

明治大学 文学部 教授 越川 芳明

境界線(ボーダー)の向こうから来る精霊たち

「ディアスポラ」――離散の民の歌

 90年代にグロリア・アンサルドゥアGloria Anzaldúa の『Borderlands/La Frontera』(本邦未訳)に出会った。国境地帯のメスティソの人々の歴史や暮らしを評論と詩で綴った不思議な本だった。英語とスペイン語で書かれていた。彼女は農場労働者階級の出であり、長じて詩人になり、大学の教師にもなった人である。おまけにレズビアンであった。社会の周縁から、アメリカもメキシコをも相対化する視点を持っていた。まさにボーダー(境界線上)の詩人だった。大学人にありがちな、頭だけで構築された思想ではない。乾坤一擲、まさに全身から生み出された思想なのである。
 英語を知っているだけでは、半分しかそうした思想がわからない。国境の向こう側の人々の話している言語を知りたいと思った。こうして40歳の手習いでスペイン語を始めることになった。私の中にアンサルドゥアの呼び声がやってきたのだ。
 私は必ずしも、弱者が常に正しいというロマンティックな思想は持ちあわせてはいない。だが、権力者には絶対肩入れはしたくない。それで、いわゆる「ディアスポラ(離散)」の民の歌に惹かれるようになったのかもしれない。
 現代では、アメリカ主導のグローバリズム、いわゆる新自由主義経済の導入で、生活における経済基盤を失った弱者(女性や子供)が都会に流れ込み、劣悪な環境のもとで働かされたり、ストリート・チルドレンとなったりして、難民化するケースが見られる。新しいタイプの「ディアスポラ」の民だ。

国境を越える「濡れネズミ」たち

 アメリカ政府は、1942年に大量の兵役動員による産業の弱体化を防ぐため、メキシコから大勢の出稼ぎ移民を受け入れ始めた。いわゆる「ブラセロ計画」である。移民たちは泥や汗にまみれて、アメリカで安い給料で働いた。1964年にアメリカ政府が「ブラセロ計画」を廃止すると、それまで国内にいたメキシコ移民は「不法移民」の扱いを受け、国外追放の憂き目に遭う。
 現在でも、年間100万人以上の移民が不法にメキシコとアメリカの国境を越えているとされる。そうした安価な労働力がなければ、アメリカ国内のスーパーに安い野菜が並ぶこともない。だが、移民たちへの視線は冷たく、犯罪者同然の扱いを受けることも多い。
 違法に川や砂漠を越えてアメリカへやってくる移民たちは、侮蔑的に「濡れネズミ」(英語でwetback<ウェットバック>、スペイン語でmojada/o<モハダ/モハド>)と呼ばれる。国境地帯の密航グループのあいだでは、スペイン語で「鶏(ポヨ)」と呼ばれる。彼らを手引きする案内人役は「コヨーテ」だ。文字通り、「コヨーテ」の餌食になる「ポヨ」もいっぱいいる。
 グレゴリー・ナヴァ監督の映画『エル・ノルテ 約束の地』(1983・米)は、農民革命をおこそうとした父親を軍隊によって虐殺され、メキシコを経由してアメリカに密入国しようとするグアテマラ人の兄妹の物語だ。兄妹は米墨国境付近で「コヨーテ」に騙され、いったんはアメリカの移民局に逮捕されてしまう。だが、機転をきかせて窮地を脱する。その方法に、私たちも学ぶところがある。

死せる者の言葉に耳を傾け、死者とともに

 2013年の夏、私は科せられた修行を積んで、キューバの黒人のあいだの民間信仰、サンテリアの司祭(babalawo)になった。さっそく、その2日後に、ベテラン司祭たちに交じって入門者のために運勢占いをおこなった。サンテリアの思想体系や占いをマスターするには、最低7年かかると言われているが、精進したい。
 「思想は他者への奉仕である」。そう言ったのは、キューバ独立革命の父、ホセ・マルティだ。社会との関わりの中で、自分の思想をどれだけ「他者」のために還元できるか。最近は、そういうことに関心が向かう。
 黒人たちの祖先は土地や財産のすべてを奪われ、強制的にカリブ海のキューバに移住させられた。だが、さすがの奴隷商人でも、奴隷たちの信仰や音楽までは奪うことができなかった。サンテリアの信仰では、主人たちの信じるカトリック教会の聖者たち(たとえば、聖ラサロ)を祀っているように見せかけ、自分たちの精霊(たとえば、民を難病から救う精霊ババルアイェ)に祈りを捧げる。高度に知的な「偽装」によって、奴隷たちは信仰を繋いできた。
 死は誰にも平等に訪れる。いや、すでに私たちはこの世で死者と共に生きているのだ。死者の魂も、精霊と同様に、私たちの身近に存在する。死者の言葉に耳を傾けるとき、私たちは予想もしない生のエネルギーを死者から得られる。
 サンテリアでは、「太鼓の儀礼(タンボール)」をおこなうとき、精霊や祖先の魂が生者のもとにやってくる。どうしてそれが分かるかというと、そうした魂が霊力の高い人に憑依するからだ。
 何もかも奪われてなお、人は残された何かを、生きる「よすが」とすることができる。遠い故郷アフリカから共にやってきた精霊たちの声が、奴隷とされた彼らを生かし続けてきた。

卑俗なものを武器に――境界線をすり抜けるアルケミスト

 為政者は、自らの価値観を揺るぎないものと信じている。被征服者はそれを逆手に取る。今、障壁としての境界線は、強大であり壊すことはできない。しかし辛うじてすり抜けることはできる。
 できあいの方法論などはない。徒手空拳の中、ただ一人自力で生み出さなければならない。映画『エル・ノルテ 約束の地』の後半、兄妹は密入国したアメリカで移民局に発見されてしまう。手をこまねいていれば、故郷のグアテマラに強制送還されてしまう。弟はとっさの機転で、「chingada (チンガーダ、「このクソ/こん畜生」という意味)」を連呼する。これは、メキシコ人だけが頻繁に使う卑語である。兄妹はこのメキシコ・スペイン語特有の卑語の連呼によって、メキシコ人に「偽装」することに成功し、グアテマラへの強制送還を免れる。
 こうした危機的な局面においては、社会で見下されてきたものが最大の武器になる。
 「迷った時は、自分にとって難しそうなほうの道を選べ」
 私はよく学生にそう勧める。自分にとって易しいと思える道を選び、失敗した場合、自信を喪失しやすい。それに対して、難しい道に挑戦した場合、たとえ失敗しても、痛手は大きくない。むしろ、失敗の原因をしっかり分析しさえすれば、もっと大きく飛躍できるかもしれないのだ。過酷な状況下では、誰でも「壁」を死にもの狂いで乗り越えようとするだろう。
 人の弱点と強みは、同じコインの両面だ。弱点こそ強みなのだ。それに気づいて、自分の弱点を強みに変換できたら、その人はきっと途方もない輝きを放つだろう。
 文学では、それを逆説のレトリックと呼ぶ。社会の中で卑俗なもの、汚辱に満ちたもの、否定的に見なされているものこそ、ポジティブなものに変換しうるのだ。
 それは、1人の人間にあっても、共同体の中にあっても同じである。ボーダーに生きる人々の思想と知恵がそれを示している。
 グロリア・アンサルドゥアだけでなく、すぐれた他の現代小説家たち、沖縄の目取真俊(めどるま・しゅん)、メキシコのロベルト・ボラーニョ、トルコのオルハン・パムク、キューバのペドロ・フアン・グティエレスなどが、とても参考になる。

掲載内容は2014年2月時点の情報です。

 今回お話いただきました越川芳明先生の新刊『壁の向こうの天使たち ボーダー映画論』が2014年3月25日より彩流社から発売されます。ボスニアやフィリピンやメキシコを始めとして、さまざまなボーダーの上に置かれた人々に焦点を当てた映画の批評集です。ストリート・チルドレンや工場で働く女性や子ども、ドラッグに走った家族たち。周縁に追いやられた人々が、どのように障壁としての境界線(ボーダー)をすり抜けていったか。彼らが壁の向こうから来る天使たちから、どのような声を聞き、自分の力としたかが語られています。ぜひご一読ください。

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