2024.03.21
- 2013年12月1日
- 特集
社会に応答(レスポンス)する市民へ ―革命を超えて
折方 のぞみ 明治大学 経営学部 准教授「自然本性的に善である」人間から、いかにして「悪」が生まれたのか
私は、ジャン=ジャック・ルソーを中心とした、革命前夜の18世紀フランスにおける文学・思想を研究対象としている。ルソーを研究していることを、研究者ではない「一般的なフランス人」に伝えると、特に私よりも上の年代の方に、「自分はルソーは嫌いだ。彼の思想は理解できない」といった拒否反応を示されることが多い。中江兆民が『民約論』(『社会契約論』抄訳)を出し、自伝的小説『告白』が愛読され、いわゆる「自然教育」を礼賛して『エミール』がもてはやされるなど、ルソーは日本においては比較的親しまれてきたし、ヴォルテールやディドロなどの同時代の他の思想家よりも知名度も高い。このように日本ではむしろ好意的に受け入れられて来たルソーが、「本家」フランスではアレルギー反応を持って語られる場面に私は幾度も出くわした。「共和国精神の父」「フランス革命の父」と呼ばれたルソーは、なぜ一部の「一般的フランス人」にかくも嫌悪感を与えるのだろうか。「善良なエリート市民」の、ある品のいい高齢のフランス人男性が、このことについて大きなヒントになるような発言をしていた。
「私はルソーは嫌いだ。ルソーの言っていることがでたらめだからだ。『人間は自然本性的に善である』だなんて。よくもそんなことが言えたものだ。」
この男性の「怒り」はどうも、ルソーの性善説(人間は生まれながらにして善であるという思想)に向けられているようなのである。実はルソーは敬虔なキリスト教徒でありながら、原罪(性悪説=人間は生まれながらに原罪を背負っているという思想)を否定している。このことが、善良なカトリックである上述の紳士には受け入れられなかったのであろう。
さて、人が生まれながらにして善ならば、この世が「悪」に満ちているのはなぜか。ルソーによると、「悪」は神にも人間にも内在するものではなく、人と人の間、すなわち関係性(=社会)の中に生まれる。だから人と人が恒常的な交流をもたないとされる原初の自然状態においては「悪」は存在しえない。自然状態はその意味で、一種の理想の楽園として語られる。もちろん自然状態の人間は積極的に善なのではなく、「悪ではない」という消極的な意味で善であるに過ぎない。そこには何の「問題」も存在しないかわりに、人は倫理に関する何の積極的な努力も必要とされないのである。翻って社会状態は、必然的に「悪」に満ちた堕落した状態である。そして「悪」の問題は常に社会へと投げ返される。つまり社会の構成員一人一人が、「悪」に対処するための倫理的な努力を要請されるのである。
最高度の人為は自らの痕跡を消し去る
堕落史論者のルソーにとって、人間の社会化の過程は進化ではなく堕落の過程であり、文明は人間の繁栄の象徴ではなくむしろ不治の病であった。「事物の創造主の手から生まれたときすべては善なのに、人の手の中ですべては堕落する」と、『エミール』冒頭部においてルソーは嘆く。
『エミール』や『人間不平等起源論』に代表的に見られるルソーのこうした「自然=本性nature」への信頼と敬意は、上述した文明批判と相まって、時に彼が自然至上主義者であるかのような誤解を生んだ。そして今なおルソーは、「自然に還れ」という本人が一度も提唱していない言葉とイコールで結ばれ、その誤解は一般の日本人にまで浸透しているのである。けれどもしばし立ち止まる必要がある。「自然に還れ」の提唱者とされるルソーが「フランス革命の父」とも呼ばれることへの違和感。これを一体どう説明したらよいのか。ルソーの主張は「社会の否定と自然への回帰」なのか、「革命という人為的手段による新たな社会の創出」なのか。上述したように、「悪」は神(自然の創出者)にも人間(社会の創出者)にも内在的には宿っていないとルソーは言う。彼の思想における自然natureと人為artの関係について、少し掘り下げて考えてみたい。
18世紀のヨーロッパにおいて、自然状態は、啓蒙すべき悲惨な状態といったキリスト教的な性悪説の世界観の文脈で語られることも少なくなかった。これに対してルソーは、原初の自然状態を善なる平穏な状態として捉えている。進歩史観が支配的だった時代に、あえて堕落史観を提唱したルソーの異質性が浮き彫りになる。
実はルソーはフランス人ではなく、お隣ジュネーヴの市民階級の家の出身であり、父は時計職人であった。共和国であるジュネーヴの市民階級は君主国フランスの平民とは違って政治参加をしており、識字率もフランスに比べて格段に高かった。そんなルソーも若かりし頃に、自らの才能で身を立てようとパリへ上京するのだが、そこで彼が見たもの(奢侈と貧困が同居する矛盾だらけの「花の都」)への強烈な違和感と、故郷ジュネーヴへの郷愁の想いが、のちの彼の思想的源泉となっていく。学問芸術の中心地であるパリでは当時、貴族や上流ブルジョワジー出身の知識人達が楽観的な人間中心主義や進歩至上主義を唱えていた。だがルソーは、「自然を超克できる」という発想は人間の驕りであると考え、このような時代の空気に危機感を抱く。人為artは自然natureをことごとくねじ曲げ、変形し、破壊している。文明は病であり、私たちは進歩していると錯覚しながら、実際は自らの滅びへと向かっているのではないか。
しかしルソーはここで「自然へ還れ」とは言わない。自然へはもはや「還れない」のである。人と人は関係を持ち、社会を築いた。「悪」は生まれ、人はすでに社会的存在になってしまっている。ルソーはでは何を言ったのか。彼は「自然の声を聞け」と言ったのである。人間に内面化された自然の声に気づくことが出来るのは、実は自然状態にいる無垢な存在ではなく、むしろ社会化された人間なのだ。赤ん坊は自分の無垢を認識出来ないし、その無垢が穢されることに抵抗も出来ない。無垢を認識出来るのは無垢を失った大人であり、大人は赤ん坊の無垢を全身全霊で守ろうとするのではないだろうか。
確かに文明化された社会には自然との偏差が刻印されている。しかし、「自然の声」に耳を傾けることが出来れば、自然の導きに従って人為的に自然を守ろうとすることが出来れば、螺旋階段を一段上がるように、人間は単なる自然状態であった時よりも、さらに高次の段階へと到達しうるのではないか。ルソーはそう考えたのであり、そう呼びかけたのである。そのためには人為を安易に排除するのではなく、その適切な投入が鍵だとルソーは言う。つまり、「人為art」の痕跡が消え去るまで人為を徹底的に投入することによって、人の手によって逆説的に自然の「意図」を復活させることを提唱するのである。自然の破壊や超克ではなく、その保護と再生のための人為投入。自らを自然の支配者ではなくその僕とすること。それがルソーの提案した道であり、社会化してしまった人間の自然に対する責任であった。
「応答する能力」としての「責任」
ロベスピエールもナポレオンI世もルソーの著作を愛読していたことが知られているが、両者とも「一市民がヒロイズムを発揮してその共同体の英雄となる」というルソー的な理想を自ら体現しようとしたという意味で、モデル的な存在となっている。そのために、あたかもルソー自身がその思想の中で革命を推奨していたかのような誤解が、現在まで続いているように思われる。ルソーの思想に地下水脈のように流れるある種の暴力性が、結果としてフランス革命の思想的源泉として機能した部分は確かにあっただろう。けれども実際のルソーは、ラディカルな革命の実現とは別の方向を志向していた。
自然状態では皆が豊かで平等なのに、社会状態ではすべてが歪められ、自然的なものは抑圧されてしまう。私たちはすでに社会化され自然状態には戻れないのだから、人為的手段を用いて自らの社会を改革するしかない。こうして社会改革のためにもやはりルソーは、人為artの適切な投入を問題解決の鍵とする。すなわち、共同体の構成員一人一人が、成熟した「市民citoyen」として自らの所属する社会と向き合い、社会が抱える問題を自分のものとして捉えること。そのことが人と人との関係性に変化をもたらし、社会を再構築していく契機となるはずだ、とルソーは訴える。ルソーのいう「市民citoyen」は単なる生活者ではないし、ましてや市場に翻弄される消費者でもない。ルソー的な意味での「市民citoyen」はすなわち主権者(能動的で政治的な主体)であり、自らの所属する社会に対しての政治的責任を自覚した存在である。ここにおいて、「責任」responsibilityは応答するresponse 能力abilityであるという、言葉の成り立ちからくる語の解釈が、ルソーの思想を理解する上でもひとつの鍵となるだろう。「責任」とは必然的に、呼びかけ(根源的には神による)に対して、自らに備わる応答能力で「応える」ことだと解釈することが出来る。
ルソーはこのように、単一の線形型のソリューションを提示するのではなく、むしろ問題の所在を明らかにして読者に提示する。そして、それに当事者として対峙するよう読者に要請するのである。各人が政治的主体として、社会からの呼びかけに「応答する責任」を果たすために、自らの知性を用いて思考すること。人はそのことによって初めて自立性を確保する。自然に対する「人間」の責任と、社会に対する「市民」としての責任。これらはコインの表裏である。通称『人権宣言』と訳されている文書は、正確には『人間と市民の権利に関する宣言』という名称を持っている。社会化された人間の責任はこのように二重に重いが、私たちには呼びかけに応答する力(能力)があるはずだと、ルソーは訴えかける。人間として、そして市民として。呼びかけに応答すべきは、他でもない私たち一人一人なのである。
掲載内容は2013年12月時点の情報です。
※記事の内容は、執筆者個人の考え、意見に基づくものであり、明治大学の公式見解を示すものではありません。